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 イリカラの叫びにガドは慌てる事なく再び吠えた。今度は軽いものではなく、本気の咆哮だ。空気が震え、安い建物は震えた。目の前にいた男たちは気を失ったように地に倒れ始めてた。
 イリカラも大きな音に目を閉じたが、ぐんっと重力を感じて慌てて目を開いた。すでにガドは屋根に飛び上がっていて、走り出している。振り落とされないようにティエルを自分の身体で押さえながら、ガドの背中に捕まり直す。
 未だに小さな火が揺れる左前足が目に見える。どうにか消さないと。けれどこのまま街中を走る事は危険だと分かるため、イリカラは屋根から見えた森を指さした。

「右を見て!あの森は川や大きな水溜りが多い!すぐ森へ」

 ガドはイリカラの言葉に喉を鳴らすと屋根を跳ねてとにかく街の外へ向かった。
 風で足に着いた火の勢いは弱まったが、可燃油のせいでずっと火が赤く燻っている。

「ありがとう。頑張れ…!」

 イリカラは背後へ視線を送ったが、自分が囚われていた屋根は既に遥か遠く、見えなくなっていた。頬を撫でる風を強く感じたのは何年ぶりだろうか。痛いはずないのに、涙が溢れた。欲に塗れた匂い意外の、愛する自然の匂いを感じたのは久々だ。肺を満たす空気がイリカラを生き返らせる。沈んでいた暗い瞳に光が差すようだ。
 朝日が差し込み始めた目の前の空へ視線を向け、イリカラは気を失っているティエルをぎゅっと抱く。友人に会えただけでなく、危険を承知で助けに来てくれた事に様々な感情が渦巻き、震える唇をきつく引き結んだ。

 



 森に駆け込んだガドは自分の体毛や皮膚の焼ける匂いと鈍い痛みに喉を鳴らした。イリカラが耳を澄ませて川の音を探し、北を指差した通りに二分ほど進むと川幅1メートルほどの小川が見えた。
 ガドは二人が降りやすいように身を低くし、イリカラはティエルを支えて背中から離れた。

「すぐ水へ!火傷に効く草を探すからティエルを置いて行くね!」

 ガドは獣型のまま前足を両方川へ押し込んだ。ジュッ…と燻っていた熱が音を上げ、漏れそうな声を歯を食いしばって耐える。
 じくじくと脈打つ痛みに流れる水の冷たさが心地良い。ガドは自分の腹にうつかるように座らされたティエルへ視線を向けた。ピクリとも動かないが、規則正しい微かな息遣いを感じられる。血の匂いも無く、怪我はなさそうで安堵するように目を閉じた。
 押入られた宿には大きな迷惑をかけてしまっただろう事を思い、耳が垂れた。せっかくカシロから持たされた荷物も、全て置いてきてしまった。そんな事を考えていたガドだが、痛む火傷が冷やされて麻痺してくると、自然と目蓋が開かなくなってきた。身体が回復を促すように、ガドはフッと浅い眠りへ落とされた。





 イリカラは久しぶりの森の感覚に混乱しそうになりながら木々の声に耳を向けた。すでに切られた長耳だが、感じ取る事に支障はなかった。森たちは優しく、火傷に効く草はすぐに見つかった。大きなトラの姿を考えて大目に掴み取るとガドの元へ全力で駆けた。
 息を切らせて川へ戻ると、イリカラは驚愕した。トラのガドを覗き込むように大きく長い黒いヘビが長い舌を垂らしていた。大木ほどの太さの大蛇にイリカラは叫んだ。

「やめろぉお!」

 イリカラはタンッ!と地を蹴って跳び、横回転を加えて踵を長い胴体目掛けて振り下ろした。これだけ大きければ動きは遅いはず…と直撃を目視で追った。しかし、思っていた衝撃は訪れず、イリカラの足首が掴まれた。人の手だ。

「っ…!!?」

 シュッと目の前の大蛇は消え失せ、すらりと背の高い裸の大男がイリカラを宙吊りにする形で笑っていた。

「随分と威勢が良いなぁ」

 身長は2メートルを超えそうで、160センチほどのイリカラの頭は地面まで20センチはありそうだった。

「獣人…?!」
「ヘビなんだぁ。初めましてぇ、エルフくん?」
「…!!」

 イリカラは長耳が切られている自分をエルフだと言い当てた男を見つめた。微かに笑みを浮かべる口元から覗く歯は、ギザギザとしていて上顎から伸びる大きな牙に似た歯が目立った。濃い灰色の髪は光の加減で虹色に光り、タマムシのような不思議さを持っている。目は細く、黒目がちで一層不気味な雰囲気だ。

「匂いがそこの彼と同じだよねぇ?彼、エルフだねぇ。綺麗なブロンドで長い耳が特徴の。…キミは耳が無いみたい」
「…切られたから無い」

 ヘビはおどけたように笑ってそっとイリカラを下ろした。背中が地に着き、足首から手を離した。

「そんな事をするのって人間かなぁ?可哀想にねぇ。私の事はケリーと呼んでもらっていい」
「…呼ぶ必要が?」
「トラくんは大丈夫そうだけど、髪の長い彼は薬が効き過ぎているように見えるねぇ。治療が要るから、助けになるよ?」

 ケリーと名乗ったヘビの獣人は裸のまま身を屈めて座り込み、川で手を湿らせてからティエルの頬を撫でた。ピクリとも反応しないティエルを見てから、イリカラへ視線を変えて首を傾げて見せた。
 イリカラは焦ったようにティエルのそばに駆け寄り、肩を揺すった。

「ティエル?…ティエル?!」
「エルフには人間の薬は強過ぎだよねぇ。風邪や病気はしないんでしょ?強い免疫があるよねぇ」
「エルフの事に詳しいの?」
「私が小さなヘビだった頃に助けてくれたのがエルフだったよ。若い見た目に反してかなりの老婆で、三年くらい世話になった彼女が死んでからこの森はかなり豊かになったかなぁ。…素晴らしい女性だったねぇ」

 エルフの亡骸は森を豊かにする。あまり知られていない事実を知っているようだ。昔に思いを馳せるように目を閉じたケリーの腕にイリカラは手を触れた。

「ティエルを助けられる?」
「薬を流してしまえばいいんだよ。それでダメなら毒を使って刺激するのもいいかもねぇ」
「毒?!それはだめ!」
「最後の手段だよ。さあ、ティエルを運ぶからキミ…」
「あ!俺はイリカラ。ティエルと、トラの獣人はガド」
「うん。じゃあイリカラはガドを起こして頂戴ねぇ。うとうとしてるだけみたいだから、すぐ起きると思うよ」
「…では、裸のケリーはこちらを腰へ巻いていただけます?猥褻です」
「誰も気にしないよ?」
「俺は気にします!」
 
 イリカラは着ていたシャツをケリーへ投げ付け、ガドの背中に触れた。名前を呼んでいると、シャツを腰に巻いたケリーがティエルを腕に抱えようとした。
 ガドの尾がくんっと靡いて、大きな顔がティエルを持ち上げようとしたケリーに向いた。低く唸り、牙を剥くトラにケリーは両手を離して手のひらを見せた。

「わぁ。怖いねぇ」
「ガドくん!大丈夫だよ…多分」

 イリカラは優しく言いながらガドの首元を撫でた。それでも唸るトラは爛れた腕でティエルを自分の身体へ引き寄せた。

「ティエルの具合が良く無いから、助けてくれるって」

 真剣な声音でガドに言い聞かせるイリカラは、ガドがティエルを守ろうとしている事を強く感じ取った。ぎゅっと首元へ抱き付くように身を寄せ、安心させようと彼の名を何度か呼んだ。

「ガドくん、大丈夫。一緒にティエルを助けよう?」
 
 ガドは眠っているように見えるティエルを見つめて、切なげに喉を鳴らして目を閉じた。






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