佐野が事務所を去ってから2日が経った。
 片付けが終わり、トランクひとつの荷物のみ。
 霧丘は未だに夢に現れては必死に縋り付くマーリに悩まされていた。あの時の感覚が消えず、早くここを離れてしまいたい。

「…様子を見にきましたが、随分と早いですね」
「早くここから離れてぇ。予定を早めたい」
「…無理です。先方にも予定があります。お前の予定は知りません」
「…お前なに?ヤクザじゃねぇだろ。若林さんの使いかよ」
「どちらかというと私は別のお方の使いです。若頭の若林さんには臨時でお世話になっています。海外関係は任せてくださいますので。不満ですか?」
「……ああ。若頭と連んでんのは白城会の野郎だろ。あんな、ヤクザを副業みたいな…」
「若林さんの代理で来ています。若頭の方に不満でも?そんな人間に仕えているんですか?」
「不満なんてねぇ。尊敬してるからな。拾われたし。さほど歳も変わんねぇのに、すげぇ人だ」
「それで十分です」

 メガネのスーツはパソコンといつくかの資料を霧丘に渡して、確認を怠らないように指示してから事務所とは言い難くなった空き部屋同然の空間を見回してから思い出したように言った。

「あ!そうでした。私の上司がお前の紛失物を保護して、坊主頭の彼に引き渡していましたよ。よかったですね。三人分の搭乗券も、先方との契約も住む場所も手配済みです」

 霧丘は信じられない…と言う顔でメガネを見つめたまま固まった。険しい顔の霧丘に対し、メガネはずっと貼り付けていた薄笑いを消して、冷たい声で続けた。

「お前は度胸もあるし頭も悪くないと聞いています。大切な仕事を任されるのだから当然ですか。ですが、すぐに捨て過ぎです。この部屋も、もう何もない。せめて本当に必要なモノくらい持ち続けてもいいのでは?と思いますけどね」

 坊主頭の彼もなかなかの根性です。と、メガネは再び薄笑いを貼り付けた。

「捨てるにしても持ち続けるにしても、始末はきちんとして下さい。あの犬は野生には向きません。あんなに主人の事しか頭に無い駄犬。…では、また連絡します」

 何か言い返そうとした霧丘だったが、メガネの言う事は最もで何も言えなかった。たしかに自分は物欲は無いし必要無いと思えばすぐに捨てた。そのおかげで何も気に留めず走り続ける事が出来た。上司に認められ、大事な仕事も与えられた。今更捨てずにどう扱えばいいものか。それが人間となれば尚更霧丘には難しい。小さな呟きがもれた。

「…何も、必要ない…」
「霧丘…?」

 不意に、開いた事務所の扉からマーリが顔を覗かせ、いつものように伺うような声で名前を呼んだ。
 声を聞いた霧丘はそちらを向くとカッと目を開いてドアを開き、マーリの襟を掴むと室内へ引き摺り入れた。勢いよく床に転がされたマーリの長身がトランクに当たり大きな音を立てた。後ろにいた佐野が驚いて止めようと手を伸ばしたが、マーリが首を横に振った。佐野は困惑しながら止まった。

「っ…」
「てめぇ!どの面さげて来やがった?!」

 霧丘はマーリのネクタイの結び目を掴んだまま右手の拳を顔へ叩き込んだ。鈍い音がして、マーリの顔が振れる。
 それでも顔を庇ったりせず、されるがまま受け入れた。

「お前が要らなくなったから、自由にしてやったろうが!」

 左頬に二発目を喰らい、マーリは痛みに顔を歪めた。本気の拳の重みに、目がチカッと点滅する。

「俺にお前が必要?!ふざけるな!!」

 三発目には先日に傷めている霧丘の拳もピキッと軽い音が鳴った。それでも四発目がめり込む。
 霧丘はマーリのネクタイを離し、上から退いた。大きなため息を吐き捨て、肩を蹴りつける。そして背を向けた。
 マーリは霧丘の拳にふらつく頭を押さえて立ち上がり、乱れた服装を直しながら名前を呼んだ。きちんとしたスーツを用意してもらった。彼のために出来る事を考えろと言われ、マーリなりに考えた事。ひとつ目はちゃんとした格好をする。

「霧丘…さん。お願い。ボクを捨てないで…」

 霧丘の事は出会った頃から『霧丘』と呼んでいた。それこそ、『こんにちは』『ありがとう』『さようなら』『きりおか』がはじめに覚えた日本語と言えた。下の名前は教えてもらっていないし、佐野や他の者と違って兄貴でもない。けれど、相手を尊敬するなら呼び方を考えろと言われた。マーリは初めて『霧丘さん』と声に出した。むず痒いような、新しい響きにマーリ自身がそわそわしてしまうが、拳を握りしめて深く頭を下げた。
 ふたつ目は礼儀を知る。

「ボク、霧丘さんのためになんでもする。ただのモノでも、ゴミでもいい。霧丘さんが殴られそうになったら代わりに殴られるし、要らないって思われないように勉強もする。佐野からケンカも教えてもらう。霧丘の、霧丘さんの役に立てるような…ボクになりたい」

 マーリは保護されてから色々と選択をさせられた。選ぶ事を今までにしてこなかったマーリにとって、とても大変な事だった。
 死にたいのか。生きたいのか。どうしたいのか。どうすればいいのか。何がしたいのか。何が欲しいのか。
 マーリの選択は全て霧丘だった。
 彼に死ねと言われたら死ぬし、生きろと言われたら生きる。霧丘といたい。霧丘に必要とされたい。霧丘のために出来る事はあるだろうか。霧丘が欲しい。
 その選択を聞いて、相手は呆れていた。霧丘の為に出来る事があるとすれば、変わる事だと告げられた。人の欲望を満たす為のオモチャでは無く、役に立つモノに変わる事。たとえ弾除けでも、そばに置く価値があるはずだ…と。
 みっつめは自分の意思を持つ。

「霧丘…さんを、しつぼーさせないように、最後にチャンスをちょうだい」
「…『ください』だろうが」

 マーリの願いを静かに聞いていた霧丘の低い声が、なんとか伝えようとしてくる言葉を訂正した。

「ご、ごめんなさい…!霧丘さんください!」

 慌てて訂正するマーリの告白に、思わずドアの外で一連の様子を心配そうに見ていた佐野が吹き出した。
 霧丘も失笑し、『バカだな』と呟いた。


 




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