63
日付が変わり、繁華街から離れてしまえば夜の静けさが辺りを支配する頃、想は帰宅した。
閉店ギリギリまで飲んでいた若林と古谷の相手を適当にしながら、片付けを済ませたとは言え、さすがにあくびがひとつ、ふたつと溢れた。
「…ただいま…。あ…」
新堂が寝ている可能性を考えて小さな声で挨拶をした想は、もち太が玄関にいない事に顔が緩む。最近は想が遅くなる日は彼がもち太の散歩に行っていた。
ありがたく思いながら静かに手を洗い上着を脱ぎながらリビングへ歩むと、小さな灯りが着いていた。
ソファに座り、ワインを片手に本を読んでいる新堂がいた。
「…漣、起きてたの?」
「ああ。おかえり」
「ただいま」
想は新堂の足元で寛ぐもち太に笑みを向けてから、彼の背後から抱きついて頬に唇を寄せた。
手にしていた本とワインをテーブルに置き、新堂がキスを返す。
「何読んでるんですか?」
「理学療法なんとか」
「足が痛みます?」
「いや、身体は万全だ。ただ、考えてみるとやる事がない」
真面目な顔でため息を吐く新堂に想は甘えるように顔を擦り付けた。
新堂は想の髪を撫でてから、前に来るように促した。
「それは苦痛ですね。漣みたいに何かしてないと落ち着かない人には」
「俺がいなくても指示すれば出来る人間は何人か雇っているし、受ける仕事は限っているからな。せっせと顔を使ってあちらこちらに行く必要も無くなった」
「漣のしたいことすればいいのに」
「それがいちばん難しい」
新堂は小さな笑みで、想の顎を引き寄せて唇を合わせた。柔らかく、温かい想の唇が誘うように新堂の唇を舌先で舐めた。そのまま想は膝を跨ぐように腰を下ろす。
「…もし、漣が今までみたいにしたいなら、俺はその方がいいと思うよ」
「そうだな。想は大人しくしてくれないし、身近な被害を考えて今回の件を加味すると、それは無い」
「漣のせいじゃないじゃん。『カラン』は勝手に日本に来たし、エドアルドさんだってタオとか言う中国のワルの事までは知らないで漣に頼りに来た。…全部、岩戸田が仕組んだ事だったのかもしれないけど」
「確かに。だが結局巻き込まれただろ。想も」
「だって、従業員の清松くんが薬のせいで死にました。島津の友達も絡んでたし。…今回のは不可避です」
「…何も、想が手を汚すほどじゃなかった。あのクソ野郎」
「許せるわけない。…俺が、殺してやりたいと思ったんです」
想は確かな欲があった事を話しながら、人としていけない事だと分かっているのに、罪悪感が無い事に心が冷えた。暗い瞳が黒く、深い闇を閉じ込めるように閉じられる。
だが、新堂の唇が目元に触れ、想は目蓋を上げた。小さな光を灯した瞳が愛しい人を映す。
「ごめんな」
新堂の小さな謝罪に、想は目を見開いた。彼の顔は悲しみも、怒りもなかった。例えるとしたら、優しさが滲んでいた。
想が微かに首を横に振ると、新堂は想と額を合わせ、視線を落としたまま囁く。
「想には明るい場所を歩いて欲しいはずなのに、俺と同じだと思うと…言葉にするのは難しいな」
言いながら、自分はダメな男だと、新堂は微かに眉を寄せた。想が岩戸田に何をしたかも、後に見た。新堂は岩戸田より、想が気に掛かった。こんな怒りを内に抱かせてしまった事を。けれど、それを否定する気は己の中に生まれず、それすら自分が優しく受け入れたいと思ってしまった。欲が深くなっている。それは確かなことだった。
新堂が黙ると、想はその唇にそっと口付けた。
「漣がいるから、俺は日向だろうと日陰だろうと、どこにいたって大丈夫です。いつも、漣が『想がいれば』って言うじゃん。同じだよ」
想は笑みを向けて自分よりよっぽど深い暗がりに降りても平然とする新堂の背中を抱き締めた。
全部捨てて消えてしまいたい。そう言った新堂だが、どこにも行かずこの場所に戻った。全部捨てる事は簡単にはいかないはずだと想は理解していたし、エドアルドが言うようにコンタクトを取ってくる輩は居るだろう。断り切れない場合もあるはずだ。それを思うと身を引く事は逆に危険が伴うのではないかと心配になる気持ちが影を伸ばす。新堂は上手くやる筈だが、力になれない自分を想は悔やむ事しか出来ない。
今度は想の考え込むような沈黙に、新堂が細い腰に手を回して身体を引き寄せた。
「そうだな。俺は想が欲しい。それ以外は別にどうでも。それだけは分かってる」
「でも、悪い事またしてるんでしょ?」
「俺の性だから仕方ねぇ。暇つぶしだよ」
「そういうところ、好きです。漣らしいね」
「本当に全部やめる時は、どこに行くかも決めてある。ふたりで」
想は小さく笑うと新堂を見つめた。
「どこに行くの?」
「想は自白させるのが上手いからな」
「そんな事ないです。それに、漣は秘密が多いし…」
『なんでも言って』そう、強い意志のある瞳で言われた瞬間が思い出され、新堂は一瞬言葉に詰まった。固い絆で結ばれた、若林謙太との秘密の約束がある。それは自己中心的であるのに、周りにも影響しかねない。想は理解を示すだろうが、出来れば知らずにいてほしい。今の日常を大切にしてほしい。そう思う。
新堂は静かに視線を伏せた。腕の中の男は鈍感なようで鋭い。ずっと一緒にいるのだ。いつかバレるだろう。
「…秘密、か…。言わせてみな」
「漣には敵わないよ」
くすっと笑って挑発するように細められる新堂の双眸に誘われて、想は口元に笑みを浮かべる。自分の腰を抱く新堂の手は強い。身体の奥に熱が生まれるのを感じた。想は愛する人の名前を囁き、頬に手を触れる。そして甘く深い口付けに期待して唇を重ねた。
end.
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