10
「夏、友隆のことは忘れな。奴は俺たちの事をすぐに忘れるよ」
嘉苗が夏を解放し、最初に言ったのはそれだった。なぜ?と言うように夏は嘉苗を見つめる。
「あいつは…なんつーか、ネジが二、三本足りねぇ奴じゃん。特に心の辺り。…人の気持ちなんて自分の次だし」
「…それは確かにそうだけど、家族の事…忘れたりしないよ」
「そうだな。夏の事は忘れねぇかも。俺の事はどうだろう。都合のいい踏み台程度じゃねえのかな」
夏は信じられないという顔で嘉苗を睨んだ。その視線を力無く受け止め、嘉苗は続けた。
「紫乃に言われてた。俺は何度か友隆と付き合いきれないって言った事がある。その度に「友隆を一人にしちゃダメ」って」
「紫乃さん?」
「紫乃は家族に冷たくされてたから、一人が辛いことを知ってたんだ。友隆は笑わねぇし、頭いいし、大人も子供もあいつを扱いにくいと思ってた。俺と紫乃以外、こんなに長い付き合いの人間は持ってないからさ」
紫乃とは、嘉苗の恋人だ。元男性。夏は誰にでも優しい紫乃を思い浮かべる。紫乃を支える嘉苗と、夏の面倒を見るふたり。そしていつもダルそうに夏の手を引く友隆も。
「…忘れられないよ…なんで忘れられんの…」
「辛いのはお前だぞ」
パソコン机の椅子に座り、タバコに火を点けると嘉苗はこれからの事をぽつりと語った。
この事務所はたたみ、撮影所を売って新しく会社を立ち上げると。主にウェブでのデザインから印刷で、すでにいつくかの仕事を受けているそうだ。新開も嘉苗に協力する旨で先程ここにいたらしい。いつまでも出来る仕事でない事は誰もが分かっており、何度も起用されるモデルの数は知れている。それは夏自身にも言えた問題だった。
「夏も、やりたい事を探し始めたら?この仕事、続けるのか?」
問われて、夏は思わず首を横に振っていた。悩んでいたようでいて、すでに自分の中では答えが出ていたのかもしれない。
「俺はいつでも夏の味方だよ。親みたいなもんだろ?新開君なんて、夏の事かなり気に掛けてたよ。真面目な子だなって。なんならウチに来てもいいし。仕事、やってみる?」
答えられず、夏は俯いた。やりたい事など無いし、分からない。けれど、嘉苗はすでに次の道を見つけているのだと言うことはわかった。自分だけ取り残されている。そう思うと、夏はぽっかりと心のどこかに穴が空いたようだ。
「…友隆に会いたい」
無意識に夏の口から友隆の名が出た。嘉苗は眉を下げ、夏の頬へと手を伸ばすと触れた。冷たい指先なのに、それは優しいものだった。
「…とことん、やってみ?辛くなったらおいで。夏はひとりじゃないって、分かったろ?」
お前は育てた友隆に似ない熱い男だな、と嘉苗は笑った。夏はその笑顔に安心して大きく頷いた。
嘉苗は満足そうに頷き返し、自分の名刺の裏にすらすらと何かを書いた。夏に渡すと困ったように笑う。
「これ、新開君の番号。彼、夏の事気になるってさ。
…友達増やしてみたら?いい奴だよ」
夏はその名刺を受け取り、番号を見つめた。激しく、けれど甘いセックスが思い出されてほんのり顔が赤くなる。好きな人とのセックスはあれよりも凄いのだろうか。どんな気持ちなんだろうか。友達になれたとして、どんな付き合いをすればいいのだろうか。夏が不安げに視線を上げると嘉苗は大丈夫だよ、と満面の笑みで夏を見ていた。
「人との出会いは大切にしないとな…ま、人によるけど」
「…うん、そうだね」
夏は名刺をポケットにしまうと、友隆へ連絡してみる事を伝えて嘉苗の事務所を後にした。
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