14


 

 ガツガツと靴でコンクリートの階段を駆け上がり、部屋を開ければ鍵が開いている。ソイルはギロアが先に帰ったと思い、無意識に暗かった気持ちが薄らぎ、一瞬ぱっと表情が明るくなる。扉を開けば、その顔は固まり、脱兎の如く登ってきた階段を駆け降りた。

「…っ!」

 まずい、ソイルは部屋に居た男を知っていた。ソイルがまだ幼い頃と囚われていた逃げ場のない世界の中で力があり、奴は多くの体罰を行った。男は開いた扉を正面から見据え、腕を組んで仁王立ちしていた。ソイルを見ると、口端だけ上げて笑った。目は、笑っていない。
 逃げるソイルは飛ぶように段を抜かして閉塞感の強いコンクリートの階段を下りていくと、二階辺りで飛び降りた瞬間抱くように大きな腕に捕まった。

「ひっ…!!」

 ソイルは暴れるが、上手く抱え込まれて動きが制限される。混乱する頭の中でギロアを呼ぶと、おちつけ、とギロアの声が耳を通った。

「大丈夫か」
「う、…あ…」

 言葉に出来ないほど驚いたのか、ソイルはギロアを見つめて唇を震わせた。ギロアは唇に指を立てて静かにするように指示し、腰から銃を取り出すとソイルを抱き止めた階段の影に再び身を潜めた。足下にはしゃがんだまま口を両手で押さえ、不安と困惑の表情を浮かべたままのソイルがギロアを見上げている。
 コツコツと、静かなアパートの階段を下りる足音が近付く。ギロアは耳を澄ませて足音を聞いた。これは向かいの部屋に住むミセス・シュカナー。その後ろ一階分の間を空けてもう一つ隠れるように足音がある。

「…チ」

 ギロアは銃を腰へ収め、今し方来たような素振りで階段へ足を進めた。ハッとしたソイルに隠れているように視線を向ける。ソイルは小さく頷いて息を潜めた。逃げる、隠れる、忍び込む、それらはソイルにとっても得意なことだったが、相手を知っている分、精神的に追い詰められて足が震えていた。

「あら、ケイナンおかえりなさい。今晩も男前ね」
「こんばんはシュカナーさん。この間のリンゴパイ最高でした」
「まあ!ありがとう。そうだわ、マフィンを作ってあるから明日届けるわね」
「本当ですか。それなら、今食べたいな」

 出掛けるところだと分かるが、敢えて引き留めると可愛くオシャレをした初老の女性らしく微笑み、嬉しそうに頷いた。

「そうね、タクシーはまだ来ないし今渡すわ」

 シュカナーが階段を戻ると、ギロアもそっとシュカナーに手を貸して笑顔を張り付けたまま階段を上り始める。少し行けば、黒いジャケットの男がゆっくりと階段を下りてくる。男はギロアを知っている様子で警戒心を強めたが、ギロアはシュカナーと談笑しながら男には気も留めない。
 男はそのまますれ違った。ギロアは自分狙いではなく、ソイルを狙っているのだと確信し、シュカナーのジョークに控え目に笑いながら男の背中を蹴りつけた。不意を付かれた上、階段という不安定な場所だったため、男は数段踏み外した。

「あ、大丈夫ですか?すみませんシュカナーさん、俺は彼に手を貸してきます。シュカナーさんはマフィンを」
「あら、だいじょうぶ?」
「はい」

 待ってるわね、と残したシュカナーを行かせ、ギロアは男をもう一度蹴飛ばした。

「ちくしょう!」

 応戦してくるかと思ったが、男は一目散に逃げ出した。ギロアが追ったが、男は表に止めてあった車に乗り込むとすぐに発進する。
 夜、人気が少ないとはいえ流石に車に向けて発砲することは躊躇われ、ギロアは苛立ちを落ち着けるために深く息を吐いた。マンションの階段に戻ると、影からソイルが心配そうにギロアを見ていた。

「お前…大丈夫か」
「さっきも聞かれた。怪我して見える?」
「真面目に答えろ!」

 声を荒げたギロアにソイルは身を堅くした。真剣で少し怒りを伺えるギロアの表情に驚きながらソイルは弱々しく頷いた。

「はぁ…シュカナーさんがマフィンを焼いたそうだ。夕飯は?」
「…ま、まだ…」

 行くぞ、とギロアの手がソイルの背中を優しく促す。ソイルはそれ以上何も聞いてこないギロアに焦れ、睨むように顔を見上げた。反らすことも、瞑ることもなくギロアは視線を正面から受けるとソイルの肩を叩いた。

「話は部屋で。シュカナーさんのマフィンを受け取らないとならん」
「…うん、そうだな」

 先に歩き出したギロアの背中を追うように進み、ギロアの部屋の前でマフィンの入ったバスケットを掲げるシュカナーに二人は頭を下げた。表でクラクションが二回鳴り、シュカナーはタクシーが来たから、と手を振った。

「下まで送りますよ」
「大丈夫よ!」

 笑顔で出掛けるシュカナーを見ていたソイルがマフィンをひとつバスケットから盗み出し、香りを嗅いだ。甘いバニラと微かにレモンがふわりと香る。ソイルは香りに満足してマフィンを一口かじった。

「お向かいのバーさん、良い人だな。お菓子も上手」
「…あ、いつの間に」

 素早い手業にギロアは少し驚きの表情を見せ、美味しそうにマフィンをかじるソイルに自然と笑みが浮かんだ。



 
 部屋に入って、ギロアは真っ先に鍵を付け替えた。壊された物よりか幾分強固そうなものだ。

「それ…どうしたんだよ」
「一応準備してきた。思ったより早く壊されて驚いたがな。さっきの男はトバルコの手先か」

 電動ドライバーで鍵を取り付けながら、ソイルがギロアの口元に差し出したマフィンへ大きくかぶりついた。

「おいっ俺の手も食べる気かよ!」
「…………」

 もぐもぐと口を動かしながら首を横に振り、取り付け終わった鍵を確認しているギロアの隣でソイルは呆れながらビールを手渡した。そばに居て、こうして己の手から物を受け取るだけのことなのに、ソイルは近くに感じてそわそわする気持ちを抑えて唇を引き結ぶ。
 床に座り、マフィンとビールを手に鍵の交換を眺めていたソイルは眉を潜めた。申し訳無さそうに声を掛ける。

「…ごめん…」
「謝るな。なかなか出て行かないからいつかはこうなると思っていたさ。入院中にトバルコファミリーを調べたし、驚かん」

 ビールを流し込みながら工具を片付け、ギロアは立ち上がった。ソイルもマフィンのバスケットを持って立ち上がる。
 飲み終わった瓶を流しへ置くギロアの背中に、緊張したソイルの声が弱々しく当たった。

「…さっきの男はトバルコの仲間じゃない…」

 勘違いしている様子のギロアに、ソイルは意を決したよう眉を吊り上げて告げた。






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