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古谷も想も沈黙し、ゆったりとした音楽が流れるだけの静かな店内に、チリン!と来店を告げる鈴の音が響いて想は顔を上げる。
常連客のサラリーマンがふたりで入ってきた。想は、『いらっしゃいませ』と声を掛けいつもの席を促した。彼らは注文が大抵決まっていたため、想は直ぐにカウンターから出て席に向かう。
「いやあ、てっきりお店はやってないかと思ったけどさ。来て見て正解」
「あれだろ?なんかヤクザの揉め事あって人が……警察もうろうろしてるし。何かの撮影かと思ったよな。今夜は藤井ちゃんいないかぁ……」
ふたりは笑い話のように言い、想もそれに笑顔で頷いた。
「お陰様で商店街もこっちの裏通りも人気が無くて。念のために今日は島津と自分が店番ですよ。そう考えるとおふたりは命知らずですね」
穏やかに笑うふたりから、想はいつものように注文を取った。カウンターに戻りお酒を作りながら、微かに笑う。客のように相手の何も知らず、関わりのない人は関係はとても楽だ。話すのも、顔を見るのも。
「俺にもお代わり」
「かしこまりました」
一通りをテーブルの二人へ運び、想は古谷へ新しいビールを差し出す。
一瞬絡んだ視線に、想は笑顔を向けた。
それは客に対する笑顔で、それを知っている古谷はビールに口も付けずに席を立つ。
金を席へ置き、古谷はカウンターを離れた。いつもなら呼び止める声が聞こえるはずなのに、古谷が扉を開けても想から声が掛からなかった。
「ありがとうございました。また、……お越しください」
「ああ、明日病院でな」
古谷の帰りがけに掛けられた想の声がどこか強張っており、古谷は少し振り返り微かに目元を緩めて優しく答えた。
想は、古谷の優しい表情を見て、声以上に固まった顔をそっと伏せる。
嫌われたいのに、人の優しさにどこか安堵してしまう自分が嫌だ。想はぎゅっと拳を握って扉に背を向けた。
店を出た古谷は、外の寒さに深く息を吐き出した。ジャケットの前を締める。
嫌われている訳ではないが、やはり想は一歩引いている。そう感じて再び大きく溜め息を吐いた。一緒に心の声が小さく溢れた。
「頑固で難しいね、ったく……かわいいなあ」
普段ならざわめいている裏通りにも、ちらほらとしか人が居ないため、寂しさが増した。
「意地張らないでビール飲んでくれば良かったな」
自身の失態を微かに笑い、古谷は帰路についた。
ふと、すれ違った黒いコートの男に慌てて振り返る。古谷は驚きのあまり呼吸を忘れ、前にも後ろにも動けず、どこか冷や汗が伝う感覚に目をきつく閉じた。
ゆっくりと戻ってくる呼吸に、胸を落ち着かせながらコートの男がアルシエロの扉を開く姿に釘付けになっていた。
「……し、新堂……漣……」
大きいが、薄い型のダンボールを下げているのに、どこか優美ささえ醸す新堂は一見、極道とは見受けられない。
まさか帰ってきたのか……と古谷は立ち尽くしていた。古谷の位置から店の中までは見えないが、想の姿が思い浮かぶ。彼は笑っているか、もしかすると怒っているか。
あの、眉を寄せて怒ったり泣いたりばかりの顔が、笑顔でいっぱいになっている様子を想像して、唇が震えた。
想の思いを一身に受ける男の背中を見つめたまま、古谷はぎゅっと拳を握った。
新堂とすれ違った古谷は、想と彼がどこか似ているように感じた。それがなんなのか漠然としないが、己には無いものだと、古谷は扉を見つめる視線を強める。
「くそ……やっぱり好かねえ」
古谷はギリっと奥歯を噛み締め、足早にそこを去った。
*
「おつかれさまです……」
語尾が消え入りそうなほど、島津の声が震えていた。
新堂は、『本当にありがとう』と島津に手を差し出す。
握手を求められた島津は慌ててエプロンでゴシゴシと手を拭きながら、言葉では遠慮した。
「ま、まさか!」
「ははっ!テンパってる」
島津の動揺に想が笑うと、カウンターの中で島津は想の脇に肘をめり込ませた。
想は呻いて、脇腹を押さえてしゃがみ込む。
「どうぞ、座ってください!」
「ぐ……馬鹿力……」
ふたりのやりとりを笑顔で流しながら新堂は端のカウンターへ座った。大きな薄型のダンボールを足元に置く。
「荷物、運びますよ」
「いいよ。もう島津は俺の部下じゃない。畏まるなって」
少しの沈黙の後、島津は『無理です』と答えた。
その答えに想が微かに笑う。
「髪、切ったんですね。その荷物は?」
「風呂場の鏡だ。なんで割った?滑って頭でも打ったかと心配したんだぞ。倒れていたしな」
ごめんなさい……と想は口ごもった。殴った際に少し切れたりした右手を隠すように握る。
「今更だけど、片付けまでありがとう……」
「それより、社長、お酒は何にしますか」
「なんでもいいよ。美味しいものなら」
タバコを出した新堂の脇に想はそっと灰皿を置いた。
島津がお酒を提供し、緊張した様子で新堂を見つめた。
「無事で……何よりっす……」
島津の声に、想は胸がぎゅっとなり歯を噛み締めた。
そのまま島津は頭を下げて、奥のテーブルの二人に呼ばれてカウンターを出た。
島津の、新堂を思う姿に想は胸が痛んだ。
好き新堂を尊敬し、慕っている島津は昔と変わらず、ほっとしながらもやはり自分の所為で周りがゴチャゴチャになったと感じる。想はタバコの灰を落とす仕草を切なげに見つめた。
「客が少ないな」
「昨日の、今日で……まだみんな怖がってます」
「上手く行ったみたいでよかったじゃないか」
詳しく話した覚えはないのに、と想は瞬きを繰り返した。視線はグラスにやったまま口端を上げる新堂に、想は頷いた。
彼は裏社会で生きてきた人間だ。
たとえ足を洗った身でも情報は流れる水のように得られるくらいのものを持っているのだろう。
「俺が力を貸す必要もなかったな」
「……でも、俺一人じゃ無理だった」
小さな呟きに新堂も頷く。
ゆっくりと紫煙を吐き出し、タバコを灰皿に押し付けた。
「それでいいんだ。想にはたくさん味方が居ると分かったろう」
「うん」
「全員が自分の意志で想に力を貸したんだ。誰も想の所為で巻き込まれたなんて思っちゃいない」
自分の所為で、その言葉に想はびくっと肩を震わせた。鋭い新堂の眼差しが、見透かしている。
想は曖昧に頷き、そのまま俯いた。拭いていたフォークの続きに取り掛かる。
新堂は静かにグラスを傾け、想をカウンター越しに優しく見つめた。不意にグラスを支える左手が異形で、新堂は目を細めた。
この指の少ない手も、想を苦しめているだろう。新堂は出来るだけ早く、それなりに本物に見える義指を用意しようと決めた。
医師として潜入捜査に協力していた時は、筋肉や動きに連動する金属の義指を用意されていた。普段使っていれば目立つし、邪魔だ。
想が自分を責めているのを感じている新堂は、少し困ったように目を伏せ、タバコを取り出した。
新堂は、愛しい男に不安ばかりを与えてしまう自分に憤りを感じることしか出来なかった。
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