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 想が店に着いたのは開店の30分前だった。
 鍵は開いており、扉を開けて直ぐ正面にあるカウンターの向こうで島津がグラスを磨いている。
 想が声を掛けると、島津はいつも通り視線を寄越して、またグラスに視線を落とした。

「昨日はクソ暇だった。しばらくはこんなんかもな」
「……迷惑かけてごめん」
「今更か」

 島津は鼻で笑って、再び想をじぃっと見た。
 ボディバッグを外してカウンターの椅子に掛けてあったエプロンを腰へ巻いていた想は、島津の視線に首を傾げた。

「なに?」
「いや。結局……奴らの狙ってた薬のヤツはどうすんだ?」
「棄てようかな」
「は?!せっかく袖川組潰したのに?」
「なんか、どこにあっても悪用されそうだし……何もしないほうがいい気もする」

 ジャケットを脱いでバッグと共に休憩室へ消えた想の姿を視線で追いながら、彼の煮え切らない様子に、島津は怪訝な表情で微かに首を傾げた。
 想は荷物を置きに行っただけですぐに戻り、椅子を拭き始める。
 想が屈んだ時、首筋に何箇所も残っている鬱血跡が赤く目立ち、島津は言葉に詰まった。
 昨晩、想は島津たちと別れてから古谷の元へ向かっている。もしかして……と考えて、どこか上の空である様子と繋げた島津は、あまり詮索しない方がいいのかと考えた。
 自分が困っているとき、無理に聞き出そうとはせずにそばにいて、必要としたときにはすぐに立ち上がる。想と島津は、お互いにそんな存在だった。
 何かあれば、話してくるだろうと納得して仕事に集中しようとした島津に、想は忘れ物を思い出したように言った。

「あ……そうだ。今日、漣が来るよ。何かいいお酒あったかなぁ」
「あー、社長はワインが好きだっけ?ビールも好きだったっけな……はア!?」
「うん、ワイン好き。けど、うちは種類が少ないな」
「おいおい!どういう……!?」

 想は、え?と屈んだまま顔だけ上げた。 

「い、いつ?!」
「昨晩かな……分からないけど気付いたら隣で寝てた」

 微かに笑みを浮かべた想だが、心の底から喜んでいないように見えて、島津は磨いていたグラスを置いた。

「嬉しくねえの?」
「え?嬉しいよ……当たり前だろ」
「ケンカした?」

 想は眉を寄せて島津を見ながら首を傾げた。

「してない。いい感じだと……思う」

 後半は消えそうで微かに耳を赤くする想に、島津は本当だと察する。
 それでも浮かない様子が気になってしまい、島津は大きく溜め息をこぼした。

「でかい溜め息」
「誰の所為だアホ。俺も大概どうかしてるわ。有沢の様子がおかしいと、大丈夫か?ってなるんだよ。ボケが」
「う、ごめん……島津たちは漣に怒ってるだろ?突然組を放って……いなくなって」

 ふと、それは自分の所為なのだという考えが再び膨れ、想は言葉に詰まった。
 島津は難しい顔の想を見て、腕を組んで時計を見た。そろそろ開店時間だ。

「別に恨んだりしてねえよ。ちゃんとした仕事を皆に残してくれたし、困った奴はいなかった。ただ、捨てられた感はあったかもな。仕事、戻るのか?」
「ううん。……戻らないと思う……疲れてるみたいだった」
「有沢は?大丈夫か?」
「俺?風邪ってバレた?」

 苦笑いして、『平気だよ』と拭き掃除を終わらせて、手を洗う想の横顔に陰りが残る。
 島津はスッキリしない気持ちで店の看板に『open』の札をかけに表に出た。

「お疲れさん。昨日の今日でも店はやってるんだ」
「古谷さん!今晩は。怪我、大丈夫すか?」

 島津は声の主を確認して小さく頭を下げた。絆創膏やらを頬に貼っている姿に微かに笑った。

「一番大変だったのは古谷さんかもしれないっすね」

 どうぞ、と店の扉を開けて中へ促し、島津は古谷の後から店内へ戻った。カランというベルが小さく響く。
 古谷は迷わずカウンターへ向かい、並べてあるアルコール類のボトルを拭いている想の前に座った。
 島津は邪魔しないように気を回し、想に声を掛けてからキッチンへと入った。

「よ、大丈夫か?」
「こんばんは。風邪、引きました」

 ツンとして視線も合わせてこない想に、古谷は苦笑いして生ビールを頼む。慣れた手つきでビールを作り、そっと古谷の前にジョッキが置かれた。
 想は微かに口元に笑みを浮かべて軽いつまみも出した。

「洗濯物、忘れちゃった。すみません。明日、直接春海さんへお届けしますね」
「まぁーた俺を避けるのか?」
「……別にそういう訳じゃないけど……」
「じゃあ、なんでこっち見ねえの」

 カウンターに肘を付き、頬杖をしながら古谷は想を強く見つめた。
 昨日、酷いことをしたとは思っていたが、よそよそしくされるのはどこか寂しい。こうして会いに来ても、視線も合わせない。
 縮まらない距離に寂しさを感じで、古谷はただ、想を見つめた。
 俯いていた想も、古谷の視線の強さにいたたまれすにゆっくりと顔を上げた。
 その目は、決して冷たくないのに、暗くて黒い、光の届かない底なしの闇色に見えて、古谷は息が詰まった。その目が微かに潤む様子から視線が逸らさない。

「……古谷さん、俺はどこか……変なんです。古谷さんのこと、理解できない。弟さんが死んだ原因は俺です。そんな相手を許せるか分からない。……知ってると思うけど、俺はどんな悪人よりもクズだし、人を殺すような事もします。……古谷さんは、……良い人です。善人だ。古谷さんといると……辛いです」

 自分が汚くどうしようもない生き物だと実感させられる。
 想は正直に伝えた。古谷は元警察官であり、真っ直ぐで美しい芝生に立っている。
 想はもがくことも止めて、沼に沈んでい動けない石ころ。

「古谷さんは……すごく良い人だから、俺みたいな人間と関わらない方がいい」

 ふと、想が瞼を閉じて、古谷はやっと息が出来たように感じた。
 逃げずに、本音を吐き出す想に、愛おしさを覚える。一歩でも、距離が縮まったような気がして眉尻を下げた。

「……どうした?急にネガティブだな」
「古谷さんの怪我も結局、元を辿れば俺の所為ですよね」
「何?罪悪感か?ならさ、優しくしてくれよ。ん?」

 想の後ろ向きな発言に、古谷は笑って冗談半分に目を瞑って顔を上げ、『キスして』と口端を上げた。
 いつものように、すぐ冷たくあしらわれると思って目を開けた古谷が冗談だと言おうとして固まった。
 想が身を乗り出し、古谷に触れるキスをしていた。子供のようなそのキスにも、古谷は呆然として離れていく唇を視線で追った。

「こんなんでいいなら、いくらでもします。満足ですか?なんならセックスしましょうか」
「……有沢、どうした……」
「飽きれば他に良い人を見つけられると思って」

 想はあえて冷たく言った。
 早く。嫌いになって。離れて欲しい。正しい場所に戻って欲しい。
 恋愛感情ではないが、想は古谷を好きになっていた。
 出会いは最悪で、嫌なやつだと思っていたが、仲間を大切に思い、身体を張る。まっすぐな男だ。
 己と居れば、また古谷を何かに巻き込む事もあるだろうと、想は新堂の指の足りない左手が思い浮かんで目を閉じた。
 新堂の左手の薬指と、小指はもう戻らない。
 古谷の弟も。
 曖昧に拒否するだけでは古谷は動じない。拒絶が必要だ。
 もう、良い人だから友人になれればなどと、想は思っていなかった。
 想は古谷に背を向けてアルコール類のボトル磨きを再開する。
 古谷はバシンとカウンターを殴りつけ、想を睨んだ。
 ゆっくり振り返って、想は古谷の視線を受け止める。

「止めてください」
「そうだな……悪かった」

 古谷は優しい声で短く言い、荒れる心を落ち着かせよるためにビールに口を付けた。
 それからしばらくの間、ふたりは一言も交わさなかったが、古谷は黙々と作業をする想の顔を少し寂しそうに見つめていた。










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