36
甘い空気を感じるふたりに割って入るように、携帯電話の着信を告げる振動が鈍く鳴った。
想は鳴り止まない振動に視線を向けた。
「漣、電話みたいだけど……」
充電器に繋がれた携帯端末の着信を知らせる振動がしつこく止まない。
「……ほっとけ」
出る気がない様子の新堂に、想はくすっと笑った。
『自由』だな、と。
*
「漣、また電話だよ」
しばらく抱き合ったままいたが、時間が過ぎていく。
新堂は伸びた髭を整えに立ち、想は新堂の作った高菜のおにぎりを頬張っていた。
すると、またしつこく鳴り出した携帯電話が気になり、想は洗面台の前で髭を剃っている新堂へ伝えた。
新堂は表情は変えぬまま『分かった』と答え、顔を綺麗に洗うと、タオルを持ったまま充電している携帯端末を手に取る。
「俺だ」
想は機嫌の悪そうな新堂の声に、電話の相手は誰だろうかと思案しながら、様子を盗み見る。
リビングのローテーブルで凌雅に頼まれている翻訳のバイトをしていたが、新堂の眉間に寄る皺に、想の手は止まっていた。
想の視線に気が付いた新堂は、目元を優しく細めてから寝室へ消えた。静かに、スライドタイプの扉を閉められる。
普段から閉まることのないその扉に、想は不安になり立ち上がった。そっと耳を澄ませて会話に聞き耳を立てる。
あかさらまに隠される事に、ひとりにされた記憶が甦る。想は閉められた扉に触れた指先が震えた。
「……今?居場所なんて教える訳ないだろ。ギロア、どれだけ人をこき使う気だ?安い金で汚い仕事させられて、結局上手くやれなかったのはお前ら側だろう。そこまで面倒見切れるか。ジズの件での借りはもう無い」
冷たく言い切る声が聞こえる。
ギロア。連邦捜査官で、新堂の友だち。
ジズ。ジズ・ウィンランス、犯罪グループの頭。想は押さえつけられ犯され、殺されかけた記憶から心臓がギュッと重たくなったように感じた。
「後手に回りたくないなら法機関は辞めろ。分かったか」
新堂は怒鳴ったりしなかったものの、突き放すような言い方で電話を終わらせた。
想は慌ててローテーブルへ戻り、英文資料をまとめて封筒へ入れる作業を再開する。
ギロアとジズの名前に、想は背筋が冷えた。
1日にも満たない時間だったが、思い出したくない過去の光景がチラりと脳裏に蘇る。
想はジズに刺されて抉られた、右手に残る傷を左手で強く押さえた。
「……どうしよう……」
想はそっと目を伏せた。アメリカでの記憶がサラサラと砂のように流れ、想の中で引っかかるものだけが網に残るような感覚がある。
想はこれでもかというほど眉を寄せた。
助けに加担してくれたギロア。彼は連邦捜査官だ。ジズの組織の黒幕を追っていた。想が知るのはその程度だったが、新堂の『借り』はそれに関係しているのではないかと、ざわざわしたものが想の中に広がった。
「想。電源は入れないでおくが、連絡が取れなくても心配いらないからな」
寝室から戻った新堂がワイシャツのボタンを留めながら想の近くにあるソファへ腰を下ろした。
「出掛けるんですか?」
「新しい携帯電話の調達と、希綿さんに挨拶に行く。他は後々だ」
「みんなに伝えますか?」
「いや、帰ったと分かれば今日は誰、明日は誰、結局前と変わらない。それより夜は想の店に行こうかな」
ネクタイを想に差し出し、新堂は口端をあげた。
想は頷いて膝立ちになり、ゆっくり過ごせばいいのに……と伝えながら慣れた手つきで新堂のネクタイを結ぶ。
以前にもよく、こうやってネクタイを結んであげたことを思い出す。想は、怖かった記憶よりも『今』の幸せに自然と胸の痛みが引いていく。
しゅっとキレイにネクタイを締め、想はネクタイを引いて唇に軽く唇を重ねた。
「……漣、ど……どこに行ってたのか、聞いてもいいのかな……」
「色々。シリア、グルジア……他にも少し」
「……そんなに?……俺、あの……、漣……」
想はどんな言葉で聞けばいいのか、何を聞きたいのか、自身でも整理がつかない。
揺れる瞳が今にも濡れそうで、新堂は優しく微笑みもう一度唇を重ねた。
「今だから言うが、ギロアに協力していた。ジズの組織を潰すためだ」
「ジズ……。俺のせいで、したくないことしたんじゃないの……?」
「違う。俺の力不足の代償だ。想が気にする事じゃない」
想が明らかにどこか自身を責めているような顔をしており、新堂は微かに笑った。
「俺は何を犠牲にしたって、想が腕の中にいてくれたらいいんだ。……今回はしくじったな。泣かせて、悪かった」
想も馬鹿ではなく、情報の切れ端を繋ぐことも出来れば探ることもするだろう。
新堂は聞かれたことには正直に答えようと決めて、浮かない顔の想を励ますように肩を叩いた。
「後でゆっくり話そう。まだまだ抱き足りねえしな」
からかうように言いながら立ち上がる新堂につられて、想も立ち上がった。
「……漣」
「早めに店に行く。楽しみだ」
新堂が目を細めて笑うと、想はもやもやとした気持ちに蓋をするように頷いた。
上手く笑えない自分を感じる。
「待ってます」
新堂が出て行く姿を見送り、想はハッキリと分からない不安に目を閉じて大きな溜め息を零した。
*
想は出勤前に凌雅へ翻訳の済んだ書類を渡しにオフィスへ出向いた。
お腹の大きな中野が想の隣を歩いて凌雅のデスクへ案内する。
「またご飯食べにきてね。謙太はいつも有沢さんのことばっかりよ」
「そうなんですか?もう、困ったおっさんだなぁ」
「謙太の宝ものが有沢さんなんだもの。許してあげてね。あ!今動いてる!触って!」
「えっ、あ……!?し、失礼します」
撫でて、と微笑む中野の腹を想は優しく撫でた。思ったより固い。
中野が『動いてるよ』と言うが想は分からず、眉尻を下げた瞬間、ぐににぃっと腹が伸びるように押されるのを手のひらで感じで、想は目を丸くした。
「!!!中に、いる!!」
「あははっ、元気でしょ?昼頃はもっと活発なんだけどね」
また来てね!と笑顔で仕事に戻る中野の姿に、想は逞しさを感じた。強いな、と。
「……あんなにお腹大きいのに……」
「だよね。でも正直な話、中野さんが……いや、もう若林夫人か。彼女が居てくれないと、俺がどうにかなっちゃうんだよう」
なかなか中に入ってこない想に、凌雅は内から扉を開けた。ガラス扉のため、中も外も見えているのだ。
想は中には入らず、了解の腕を引いて社長室から出した。
「凌雅さんなら大丈夫です」
「あ、もー、そうやって適当なことをさぁ……でも、想くんに言われると頑張りたくなる」
「無理しすぎるのは凌雅さんのダメなトコかも。あんまり力になれないけど、頼ってください」
「あぁ……好き!弟にしたい」
疲れが溜まっていた凌雅は想を抱き締めた。
デニムにニットの凌雅は社長らしくない服装だ。
今日はずっと社内にいたのだろうと察した想が息抜きに誘った。オフィスの一階にはカフェがあり、想は出勤前にそこで軽く夕食を済ませようと考えていた。
凌雅もそこで夕食取ることに決め、二人でエレベーターへ向かった。
「……うーん?なんだ、想くん元気ない気がする」
「え?」
「袖川組のこと、片付いたんだろ?疲れた?」
エレベーターに乗り込み、想は頷いてボタンを押す。本当に精神的に疲れていた。薬で熱は落ち着いているが、やはりどこかだるさも残る。
「久しぶりに熱、出てしまって。でも、もう全然元気なので!」
「はは、子供みたいに腹出して寝てんじゃないの?温かくしてなよ?ここの飯、奢るよ。体調良くないのになのにわざわざありがとね」
「すみません。俺に奢らせてください。今度美味しいご飯は凌雅さんの奢りでお願いします」
「ははっ、じゃあ行きたいレストランあるんだよね!付き合ってね」
想は笑顔で頷いた。
自分で凌雅の息抜きになればと誘っておきながら、気を使わせてしまった事に反省する。
想は食事中も、会話中も、出勤途中も新堂のことで頭がいっぱいだった。
新堂が姿を消していた間の事ばかりが頭に思い浮かぶ。
あくまで想像だが、ギロアの仕事に協力しなければならなくなった理由が自身にあるように結び付き、想は密かに唇を噛んだ。
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