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「意地悪なことして悪かった!返すよ」

 想はますます溢れる涙に、微かに鼻をすすって、握らされたリングをぎゅっと握り締めた。土手を登ろうと足踏み出したが、古谷は手を離さない。

「……なんですか?」

 横目でちらりと古谷を見ると、彼は優しく笑っていた。想は訳が分からず乱暴に手を振り払った。

「……気が済むまで殴っていいですよ。どうぞ、好きにして下さい。それで死んでも恨みません」
「は?なんで?別に有沢を恨んでないし」

 少しの沈黙の後、『変なの』と想は呟きゆっくり土手を登り始める。
 古谷もそれに合わせて足を進めた。

「好きにしていいなら、抱き締めたい」
「…………」

 黙ったまま、びしょ濡れでとぼとぼ歩く背中が小さく見えて、古谷は手を伸ばした。
 気配を感じて自然にその手を避けた想は、そのまま足早に頼まれた洗濯の紙袋を持って走り出した。

「俺はそんなこと聞いても驚かねえよ。だいたい、仕返しのために犯人が知りたかった訳じゃないしな。弟はクズだったし、いつくたばっても仕方ない人間だった。でも、人は傷つけたり出来ない小心者なんだ。人は殺してねえって事が知りたかっただけだって、始めから言ってたよな」
「頭おかしいんじゃないですか。俺だったら許せないです」
「俺が有沢で憂さ晴らしして、何が得?好きな相手まで無くすなんてゴメンだね」

 背後の古谷の言葉に、想は唇が震えた。
 古谷の潔く、真っ直ぐな言葉や考えに想は自分の汚さを実感させられていた。どうやっても、古谷の考えに頷けないと。
 想は惨めな気持ちや、諦めのような感情に張っていた糸が緩むのを止められずに深く息を吐いた。
 ゆっくりと歩き出した想の背中に、古谷の言葉が突き刺さる。

「真実をありがとな。すげえすっきりした」

 『また明日、店に顔出すよ』という言葉は想の耳を通り抜け寒空へ消えた。









 想がマンションに戻ると、もち太が尻尾を振って掛けてきた。想は撫でようと手を伸ばしたが、定まらずにふらふらと床に座り込んでしまう。

「熱だ……」

 自覚できるほど高い。想は壁に手を突いて立ち上がり、びしょ濡れのままではまずいと脱衣場へ入った。着ていた物を全部脱ぎ、川の気持ち悪さと寒気を取るためにシャワーを浴びようと決めた。だが、バスルームは今朝殴りつけた鏡の破片が散らかったまま。想は立っている間もフラフラを繰り返していた。
 想は荒く小さな呼吸を繰り返しながら止まりそうな頭を回転させる。
 風呂は無理、タオルで拭いて、薬を飲んで、温かくして、と想は立ち尽くしたまま頭の中にポツポツと浮かぶやるべき事を実行しようとタオルにくるまった。もち太が廊下で想を見ている。

「……もち太……」

 自分が消えたら、もち太はここに一匹。
 大丈夫だろうか……想は少し心配になってきた。
 島津と蔵元、若林はエレベーターの鍵を持つが、部屋の鍵までは持っていない。
 想はとろとろと下着や部屋着身に着け、廊下に出た。

「……あ、……れ」

 そこまで立っていたが、膝から力が抜けるように倒れ込み床に転がった。
 冷たいフローリングが心地良い、などと頭の隅で考えていたが、想はそこで意識が薄らいでいく。

『想、大丈夫だよ』

 春が呼ぶ声がする。
 時々、弱った自分を支えてくれる。
 側にいると感じる。幻覚だと分かっていても、想にとって彼女は大切な存在だ。

 ごめんね、春……助けられなくて。
 島津、蔵元、ありがとう。
 けんちゃん、大好きだよ。
 漣……会いたいよ。俺、頑張れた?

 寂しい。分かってる。女々しくて、ダサくて、周りの人にたくさん気を遣わせて、苦しくて、辛い。 
 いっそ、お前のような汚い人間は嫌いだと、言ってくれたらよかった。一緒にいられないと、はっきりと。
 そうすれば、今までのように暗い場所を、ひとりでゆっくり歩き続ければいい。
 中途半端に優しさを、灯りを残されても、そこにいられない。綺麗な場所にいるには、汚れすぎているとしっているから。
 想は熱いような寒いような感覚を持て余し、涙が伝う感触だけをやけに冷たく感じていた。

「……れん……」

 捨てるくらいなら、始めから拾わないで……失うと知っていたら、あなたを知りたくなかった。
 どれだけ普通を装っても、汚れた自分は変わらず、失った部分は大きくひび割れていて、ゆっくりと崩れていく。
 そんな感覚と戦う毎日。

「……つかれた……」

 弱々しい呟きは途切れた。
 強い、逆らうことが出来ない眠気のようなものに全身を支配される。
 傍らに感じるもち太の温もりに安心して、想は簡単に目を閉じていた。









 温かい。
 想はふわふわする夢のような感覚に少しだけ目を開けた。
 フルーツのいい香りと、水音が心地良い。
 それでも夢心地の想は目を閉じて温かい安心感に身を委ねた。

「……夢も……いいな」

 弱っているときくらい、どっぷり眠ろう。
 想は夢の中で微かに笑った。
 突然強い風が想に吹き付けたような感覚が襲い、慌てて目を開けた。
 想は小さく溜息をして、『夢くらいゆっくり見させてよ』と誰に言うでもなく呟いた。

「……え」

 起きあがろうとして、想は身体の全機能が一瞬止まる。
 いつの間にかベッドへ移動し、身体も温かく、いい匂いだ。
 そして、なにより感じるのは背中にある大きな体温。
 想は身動きが取れず、そっと手を動かして自分の身体を抱く手に触れた。
 不自然に無い、足りない指。薬指と小指がない、左手が自分の身体を抱いている。

「っ……?」

 想は夢なのか現実なのか、混乱していた。
 夢かも知れないと分かっていながら、期待に身体中の毛穴が開くような気持ち悪さと緊張、破裂しそうな心臓に意識とは無関係に涙が滲み始める。
 嗚咽を耐えながら、想は気配を立てないようにゆっくりと腕から抜けて、温もりの正体を確認した。

「……ゆ、ゆめ……?」

 ベッドには新堂がぐっすりと眠りながら寝息を立てている。
 あの頃と大して変わらず、少し伸びている髪と髭が若く見えた彼を年相応に見せた。

「夢……?」

 想は気配を殺してクローゼットへ行き、結束バンドを取り出した。持ち運びやすく捨てやすいプラスチックの結束バンドはとても役立つため、想は少し持ち歩いていた。
 想は僅かに口端をあげて、ネクタイも何本か取り出した。

「……れん……」

 少し熱っぽさが残る身体では気配も消しきれない。
 想はこれだけ動いても起きる気配のない新堂を見て現実ではないと言い聞かせる。けれど、身体は勝手に動いていく。
 ネクタイで新堂の右手首を縛り、結束バンドと繋いでベッドの上部へしっかりと固定する。左手にネクタイを絡めて自分の右手と八の字になるようにキツく繋げて縛った。
 想は満足そうに一瞬笑い、少し寂しそうに新堂を見つめた。

「このまま夢の中にいたい……」

 そっと、微かに触れるだけの口づけを落とした。
 再び気配を殺して隣に寝転がり、新堂の腕の中に収まった想はゆっくりと目を閉じた。
 微かに頬を伝った涙を枕に擦り付ける。
 何度擦り付けても、ずっと溢れてくる。

「う、ぅっ……このまま醒めませんように……っ、……」

 消えそうなほど微かな呟きを残して、想は熱に促されるように再び意識をゆっくりと沈めた。


   





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