30
想は、人の行き来が減った静かな病棟へ足を踏み入れた。
懐かしい。
春のいた場所。通った建物。
「……あ、小倉さん……!」
「わ!有沢さん?!久しぶりですね!元気でしたか?なんか……色々よくない噂を聞いてますよ。もう、そっちの人間じゃないから……よく分からないですけど」
今日はどうかしたんですか?と小倉という看護士が病棟入り口でうろうろしていた想に声をかけた。
小倉は元白城会の構成員だ。
「もう面会の時間終わりますけど、誰かに会いに?」
「あの……希綿さんの知り合いで入院になってる人、分かりませんか?」
「あー……それなら確か廊下の突き当たりを右、一番始めの個室で」
「有沢!?」
想と小倉が声の方へ同時に視線を向けた。
頬にガーゼを貼った古谷が紙袋を下げて今し方話していた廊下の方から歩いてきた。
「……古谷さん」
想は、紙袋を持つ古谷の上着の袖から出ている手の包帯や顔のガーゼを見て眉を寄せた。
「あ、お探しの方?入院してる人の付き添いで来られたんですよね。あ、俺行きますね」
ふたりの間の微妙な空気を察して、小倉は丁度呼び出しを告げる院内連絡用の端末を見てから頭を下げて、笑顔を残してナースステーションへ去って行く。
「小倉さん、ありがとうございました」
「いいえ、お気をつけて!」
想がお礼をすると、小倉は振り向き軽く頭を下げた。
古谷が想に歩み寄り、肩を抱くように身体を寄せ、大きく溜息を零した。
「終わったか」
「まあ雑ですけど、後はお偉いさん方がまとめると思います」
想は俯き気味のまま、病棟から出るエレベーターの方へ歩き出した。
自然と古谷も付き添う。エレベーターが来る間の沈黙に、古谷は紙袋を想へ押し付けた。
「春海さんの洗濯だ。俺さ、軽い火傷やら打撲やら散々だったから、代わりにやってくんねえ?」
「……分かりました」
古谷の要求を受け入れ、それだけの想に古谷は追って話そうとしたが、エレベーターが止まり想はささっと乗り込む。
話すタイミングを逃して、古谷も仕方なく続いた。
「有沢、俺のこと心配した?ん?」
顔を覗き込んでニヤニヤと笑う古谷の頬にあるガーゼに目をやり、想は視線を反らした。
襲われた店。傷ついひと。全てが自分のせいだと思うと、想は何もかもやめたくなるような気持ちが膨らむ。
決して、意図して望んだことではないが、存在していることが罪のように感じてしまう。
俯く想の視線が冷ややかで、古谷は少し怖さを感じて無意識にそっと背中に手を触れた。
びくっと小さく跳ねた肩。
想は現実に引き戻されたように息を吸い込み、小さく声を絞り出した。
「関西のヤクザが古谷さんをボコボコにしたって言うから……俺の所為だと思って」
チン、と軽い音がしてエレベーターが止まり、想は足早に降りると出口へ迷わず進んだ。
古谷はそれに合わせて歩きながら緩む顔を隠す事もせずに笑う。
「返り討ちにしてやったし。俺を舐めてんのか?これでも訓練所じゃトップだったんだからな」
「ふうん……随分怪我してるけどね」
「ちがっ!これは、春海さんの店が火事になって、春海さんが『中には大切なものが!』って入って行っちまうから、追い掛けて物を確保して春海さんを担いで……火の海駆け回ったらこうなったんだよ。決して喧嘩でやられたんじゃねえ!」
まくし立てるように言う古谷をちらっと見た想は呆れたように小さくため息して口端を上げた。
「ムキになって、子供みたい」
想の言葉に古谷はムカつくより、ほっとして笑った。
想はさらに怪訝な眼差しを向ける。
「有沢のトゲのある言葉が心地いいなぁ」
「なにそれ……気持ち悪い」
引き気味の想を見て古谷は咳払いをして誤魔化し、病院を出た。
雪がちらほらと舞い落ちる、暗くなっている道を歩き出す想に続いて歩きながら様子を伺うように言葉を続けた。
「キモイより気持ち悪いって傷付くな……てか!有沢は怪我してないか?」
「してません」
「なあ、……うち来る?」
後ろを歩く古谷を、想は振り返って睨み付けた。
古谷はその視線で回答は「NO」だと察したが、冗談のように誘った。
「じゃあ、飯は?」
「……確かにお腹空いた」
「じゃあ、うち来る?」
「そこの牛丼食べて行きます。さようなら」
つれないなぁ、と古谷は想の背中を追ってチェーンの牛丼屋へ入っていった。
*
想は古谷と牛丼セットを平らげ、店を出た。外の寒さに身を強ばらせる。
スウィングトップの襟を立ててボタンを留めた。
「うわっ……うぅ、すごく寒い」
「流石に雪が舞ってるし冷えるな」
食事中に着た島津のメッセージで、想は店には行かずに帰ることに決めていた。
ヤクザ絡みのごたごたがあり、周りの店も殆ど客足は無く人手は足りているとのことだ。
想は苦い気持ちで返信をし、古谷も心配そうに店のことを気にした。
「タクシー拾いますか?」
店から少し歩き、人気も無くなってきた暗い時間に怪我人を歩かせるのも、と思った想が声を掛ける。
「うちまで送ってくれよ」
「タクシー呼びますよ」
「なんでそんなに他人行儀?今朝?昨夜?は感じ合ったろ」
古谷がいじけたように唇を尖らせた。
想はほんのり赤くなるのを自覚して俯いた。
「それは、すみませんでした。ホント……俺は最低でした」
「止めろ!有沢が悪いわけじゃねえだろ」
古谷が怒鳴り、想は顔を上げた。
大声では無かったが、少し感情的な言い方だ。
古谷は想に一歩二歩と近寄り、襟を掴んで引き寄せた。鋭い古谷の視線に、本来なら睨み返せる想だが、出来ずに目を伏せる。
それを見た古谷は襟を離し、素早く想の首から紐を引っ張り出して手に絡めると、一気に引いた。
物凄い力に、油断していた想はバランスを崩して古谷の胸に慌てて腕を突っ張り体勢を保った。痛みに首を片手で押さえる。
想が顔を上げると、古谷の手には想が持っている二つのリングが通る紐がチラリと揺れた。
「新堂漣、本当に嫌いだ」
古谷は低くそれだけの言うと、それを少し後方の川に向けて投げた。
川は膝程の深さだが幅が20メートルはあるし、この暗がりでは諦めるしかないと、古谷は唇を引き結んで川から想に視線を戻した。
心は痛んだが、謝る気は無いと言おうと唇を緩めた瞬間、想は走り出した。
ガードレールをひょいと飛び越え、枯れ草ばかりの足場の悪い土手を器用に下り、バシャバシャと川に足を踏み入れた。
「有沢……っ!!!???」
古谷は呆然と想を見つめて、川の中に手を突っ込む姿に慌てて後を追う。
「何やってんだ!無理だから!水だって冷えてんだぞ!」
橋を渡り、辛うじて河川敷のある側に降りた古谷が想を呼ぶが、想は聞く耳も持たずにずぶ濡れになりながら指輪を探す。
数分、古谷は想を呼び続けたが全く聞かない事に痺れを切らせてポケットからリングの通る紐をぶら下げて声をかけた。
「ここにある」
だから探しても意味がない、とは言えず、古谷は川に立ち尽くす想を引き上げるために川に入った。
「くそっ、こんなに冷てえじゃねえか」
来い、と無理矢理引きずりながら川から上がり、古谷は上着を想に掛けようと近付いた。
想はそれを拒否して二歩下がる。
寒さに震える身体より、泣いていることがみっともなく思えた想は手のひらを差し出して「返せ」と視線強めた。
「……もう、俺の前に現れないで下さい。立花全を殺したのは俺です。アナタの弟を死なせたのは俺の所為だ!俺は、……恨まれた方が楽だし、慣れてるし……!」
感情を爆発させるように言葉を投げつける想に、古谷は手を伸ばしたが、避けられる。
『もういい』と力無く声を零し、冷たい涙を擦りながら踵を返して土手を登り始めた想の手首を、古谷が掴んだ。
振り払おうと身体に力を込めた想のその手に、リングを握らせた。
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