16
想は古谷から逃げるように店に戻った。
蔵元は心配そうに想へ視線を向けた。
「想くん、大丈夫?」
「ただいま。急にでごめん。蔵元、ありがとう」
想は閉店まで裏でキッチンの片付けをしようと決めてジャケットを脱ぎ、椅子に掛けた。
店はそれ程混んでいなかったため、表は従業員で上手く回せていた。
「有沢さん、お先です。おつかれさまでーす」
閉店後、頭を下げて明るく出て行くメンバーに手を振り、想は点検を済ませて鍵を閉めた。
丁度、帰路に付いたときメールが入って画面を操作しながら暗い通りを歩く。
「……困る……」
メールは古谷からで、『もう黙って調べたりしない』『また飲みに行く』『ごめんな。今度はメシでもどう?』と謝罪が添えられていた。
可愛い絵文字の間抜けさに、思わず顔が緩む。
古谷は悪い人ではない。
だが、あまり深く関わりたくないと思っていた。想は確かに新堂が好きだ。愛というより、独占欲なのかもしれない。
新堂さえいてくれたら、ほかの人間の気持ちなど知りたくもない。
好意を向けられれば、自然と思い出されるのは新堂で、それは想を寂しくさせる。
「……漣」
いつ帰るのだろうか。
想は寒空を見上げて白い息を吐いた。
一方、メールを送った古谷はこの辺に姿を見せ始めた関西、袖川組の隠し撮り写真を整理しながら春海の情報を確固たるものだと示すために繋ぎ合わせている最中だった。
ちらちらと携帯をみるが、思い人からのメールはもちろん無い。あったらそれは、隕石が地球へ無事に落ちるくらいの奇跡だと分かっていた。
*
バタン!と狭い事務所の扉が開けられ、午前三時を回っても変わらず派手な化粧で完璧な美人を体現する春海が古谷に詰め寄った。
「士郎、あんた……天黄組のネタはどこからのものなの?!ガチよガチ。哲郎はハメられたんだわ、天黄組の奴に……立花全殺しの罪を着せられた。これは幹部クラスしか知らないトップシークレットみたいよ?どう言う事!」
春海の興奮したような言い振りに、古谷は呆気に取られてしまっていた。
想が古谷の弟のために渡した情報だ。
古谷の回答よりも、春海が落ち着くためにタバコに火をつけた。
「天黄組……あそこも小さいからそろそろ潰れるわね。立花全を殺すなんてリスク、何のために受けたのかしら。謎しかないわ……」
派手なピアスを揺らして、春海が右往左往する様に古谷は苦笑いで受け流した。
想が自身へ寄越したネタはどうやら本物らしい。
そのことで古谷はホッとしていた。
想がくれた情報に弟の無実が証明されたことは古谷の気持ちを軽くさせた。
「春海さん、裏をとってくれてありがとうございます」
古谷のスッキリした笑顔に、春海は一瞬眉尻を下げ、笑顔を返した。
「アンタの気持ちが整理できたならよかったわ。……さて、明日も頑張りなさいよ!用心棒、兼情報収集よろしく!」
へいへい……と古谷はダウンジャケットを羽織って帰宅のために小さな事務所を出た。
*
一週間のうち、半分はやってくる古谷に想はわざと溜め息を深くした。想が裏から出てこなくても通っていた。
「どうしてだろう……俺の日本語、通じませんか……」
「俺は振られてる。でも好きでいるくらいいいだろ?」
何度となく交わされたやり取りに、想は呆れてやれやれと首を振った。
古谷の好意をいくら断っても、古谷は店に来て酒のみ、常連や従業員とも打ち解け始めていた。
想が表には出ず、裏で書類仕事や調べ物をしていても、古谷が来れば従業員たちは一々報告した。
島津も蔵元も、彼が警察官を辞めたことで警戒を緩めており、想とのやり取りを面白半分に見ていた。
もはやネタになっている。
「確かに有沢さんは小綺麗だねぇ。彼女の一人や二人や三人いるんじゃない?」
「うちの嫁さんよりいいケツしてるぞ。後ろ姿も美人だ。俺の目はごまかせん!」
「でしょう、でしょう」
常連のサラリーマン二人と飲んでいる古谷に、カウンターでお酒を提供していた従業員もうんうんと頷く。それを見た想は目を伏せて肩を落とした。
「酔っ払いめ」
「あ、時間だ。有沢、また来るからな」
古谷はお金を置いて、少し身を乗り出して想に一言耳打ちした。
『弟の事、ありがとう』と言われた想は俯いた。
騙している後ろめたさを誤魔化すために微かに笑う。
想の僅かな笑顔に古谷は嬉しさに目を細めた。仕事行ってくる、と席を離れる。
酒が入っている状態で一体何の仕事だと、みんなに笑われながら店を出て行った。
「さてさて……丁度いい感じに酔ってきたかな」
古谷は白い息を空へ吐いて、覚悟を決めると、日付が変わってもまだまだ明るい表通りへ向かった。
「もしもし春海さん。もう来てます?」
春海へ連絡を入れながら、通勤ラッシュとはまた異なるざわめきの雑踏へ古谷は紛れた。
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