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古谷士郎が想を訪ねてきてから二日。彼は連日、店にやって来た。
想はカウンターに立ってグラスを磨き、まだ客のまばらなこの時間は藤井の話に耳を傾けている事が多い。普段なら。
しかし、今、目の前で水割りの三杯目を飲んでいる本物の古谷に捕まり、想はなかなか来ない島津を恨めしく思った。
微かに眉を寄せて、うんざりしたようにた小さく息を吐き出す。
「……何か召し上がりますか?下がる前にお持ちします」
「下がるなよ」
はは……と乾いた笑いを漏らして、想はげんなりした。
藤井は古谷が警察手帳を見せた所為で距離をおいている。
『お邪魔になるといけないので!』と猫なで声でテーブルにあるポップを磨いていた。
「なんで加藤が本物じゃないって分かった?」
「……うーん……勘ですか」
「北大宮議員の息子をリンチしたろ」
「誰ですか北大宮議員の息子って」
急に冷えたふたりの周りの空気に、古谷と想の視線が睨み合う。
「議員が被害届を出そうとしてた。当の息子がなんとか取り下げてくれたが、酷い怪我だった。顎にヒビ」
「……それはひどい……」
鼻を折りたいと言って我慢した島津だが、やはりあの一撃は顎を破壊していたのか。と想は内心であの変態野郎のことをザマミロと思った。
勝手に話す古谷をそのままに、軽く頭を下げてカウンターを離れようとした。
古谷は立ち上がり、想の手首を掴む。
想は払おうとしたが、強い力にびくともしない。無理矢理剥がせないこともないが、ここは店内で他の客もひとりいた。
「話……聞くだけ、聞けよ。な?」
ぎりぎりと掴まれた手首を締められるが、想も引かない。古谷を無言で睨み付けて、お互い引かずにいた。
古谷は想の頑固さに負けて手を離した。そして短く謝罪を声にした。
「うちのバカが被害届も受け取らなかった子、ここの従業員の妹だったんだな。申し訳なかった。けど、リンチは犯罪だ」
「リンチがどうのこうの知らないですけど、しっかり仕事しろよ」
想はそれだけ、吐き捨てるように言うと古谷の前から離れて、カウンターの端に移動した。
足元の製氷機から氷を出して、大きめに砕き始める。古谷が想を見ても、想は視線を動かさない。
を古谷は仕方なく溜め息をして金をカウンターに置いて席を立った。
「アンタには聞きたいこと山ほどあるんだ。また来る」
「俺は滅多に表にはいません」
「職権使うからいいよ」
「……役に立つことは何も知らないと思います」
想が遠回しに来るなと言っているのに、なかなか理解しようとしない古谷。彼は目を伏せて小さく息を吐いた。続けて低く、唸るように言った。
「弟が殺しはしていないと証明したいだけだ」
「気の毒とは思います。けど、俺にはどうでもいいことなんで」
想が冷めた視線を古谷に向けると、古谷は微かに笑って、氷を砕く想の正面まで移動すると、顔を近づけて、実は……と秘密を明かすように囁いた。
その目は、想を卑下するような色だ。
いつも、そんな視線に晒されて生きて来た。ヤクザの頭たちに、殺しや拷問を褒められても、視線は卑下していた。新堂のそばにいる時、男のくせに……と汚いものを見る目を向けられた。時には興味を丸出して笑う者もいる。
そんな切れ味の悪い刃物でつつかれるような視線に慣れてしまえるくらい耐えられたのは、新堂がいつも支えてくれていたからだ。
絶対に安心できる腕の中を失った今、想は暗い気持ちに呑まれそうになって、冷たい氷を見つめた。
「俺は岡崎組、元組長北川と繋がってた。ま、根は警察にあるから、二重スパイみたいなもんだったけどさ」
氷を砕く手が一瞬止まったが、不自然ではない程度で、想はすぐに手を動かした。
古谷は傷のある想の右手に視線をやって、続けた。
「アンタがカタギじゃないことは知ってるんだ。北川のイロか?姿は時々見かけたが、一体どんな関係だったんだろうな。金持ちの家に育ったもんな、大した苦労も知らないだろ。女にも不自由しなさそうな顔して、ヤクザたらし込んで、楽して生きて来たか?なんの確証もなくアンタの所に来たとでも?弟の事で左遷されたが、刑事として暴力団と連んでたんだ。お前のこともすぐに調べが付く。ま、普通ぶっても意味ないよ」
「……普通、って……なんでしょう……」
少しの沈黙の後、想は古谷を見つめて言った。
その表情からは何も感じられないほど冷たくて、古谷は微かに息を呑んだ。整った顔が、暗い大きな黒い瞳を際立たせる。
古谷は気圧されまいと口端を上げ、軽く手を振って店を出て行く。
想は古谷の笑みが自身を蔑むものだと分かっていて俯いた。アイスピックを下ろし、氷をしまう。冷えて赤くなっている指先を見つめて大きな溜め息を零した。
「……普通、か……」
小さな呟きは誰に聞こえるでもなく、静かに溶けた
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