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 想は炎天下の中走り続けた。
 シャツがじわりと汗ばむ。暑さのせいか、緊張のせいか分からない。想は怖い気持ちを振り払うように全速力で身体を動かした。
 部屋のある階には鍵がなければエレベーターは止まらない。だがらもしプロだったら……。もち太に何かあったら……部屋を荒らされたら……。そんな、最悪を想像をしてしまう。
 ヤクザの責問役として働いた5年間。その経験がそんな想像をさせていた。
 裏社会の生き物たちは、『普通』じゃない。

「……っ!!!」

 部屋を荒らされたり、もち太に何かあっては腹の虫が想を食い破って暴走しそうだった。
 マンションに近くなると、見知った車が表に堂々と停まっており、脇には若林が立っている。
 想はスピードを上げた。

「若林さんっ!!」

 想を見つけた若林が車のドアを開ける。
 想が一瞬立ち止まると、安心させるように笑顔を作りマンションのエレベーター入り口を指差した。想がそちらを見ると、若林の腹心の部下、塩田と、始めて見る明るいグレーのスーツを来た男が手を振っている。

「ここはふたりに任せていい。心配するな」

 若林の言葉に想は頷いて車に乗った。ヤクザに追われるとなれば信用できるのは若林だけ。
 後部座席にはスーツの入ったカバーが置いてあり、手に取った。

「着てくれ。怖いおっさん達の中でオヤジにあれやこれや聞かれるぞ。俺と行ったほうが良いと思って迎えに来た」
「うん、分かってる。ありがとう。……あれ、これ俺のスーツだ」

 カバーのファスナーを開けて想が首を傾げる。部屋のクローゼットにあるはずのものだった。長袖シャツを脱ぎ、汗を軽く拭いてをスーツに掛けてある黒いシャツに袖を通す。

「……新堂が用意してあった。お前は俺と希綿さんが守るからシャキッとしていろよ。オヤジに楯突くな。デケー顔した糞ヤクザ共がピリピリしてるからな」
「……漣のせい?」

 うーん、そうだな……と笑う若林に想があからさまに呆れた顔をする。

「じゃあ、漣がどこに行ったか知ってる?」

 想は乗り出して若林に尋ねた。平静を装っても、表情や言葉の端端に想のかき乱された内心が伺える。若林は運転しながら想の頭を叩いた。

「お前が知らねえことを俺が知ってるかよ。今日のことと、海外に行くって事だけだ。塩田に調べさせたが、航空券や乗船券は無いから、追うに追えねぇが」

 ミッシェルの葬儀に関することかと思案した想だが、完全に消えたとなると別件と思える。先日のように少しの休暇を取ればいい。
 ここ何日かの濃密な幸せな時間と不安の混じり合った時間がふわっと甦る。想は身体の様々な部分が冷えるのを感じた。


「……そっか……」

 光沢のある黒いネクタイをしながら考えていた想は一瞬息が止まった。
 どんな仕事かは分からないが、会社も組織も捨てたと言うことは、帰らないかも知れない。
 今まで、何日かすれば、何ヶ月かすれば、そう考えていた自分自身に想は呆れた。帰ると言う新堂の言葉を信じたいが、何もかも知らない想には酷く曖昧な言葉だった。
 乗り出していた身体をゆっくりシートに預け、想は唇を噛んだ。
 新堂は『優先させる仕事』をするために姿を消した。自分は必要ないのだと思うと、想の中の何かが『ほらみろ』と笑った気がした。
 生きる世界が違うだろ?と。彼の隣にいられると思ったの?と。
 真っ黒な感情に蓋をするように目を閉じた。
 それでも、ジーンズを脱いでスーツを身に着ける作業は続け、車が立花全の邸宅に着く頃にはきっちりとスーツに着替えた。

「俺も……」

 捨てられた?想は言葉に出来ずに飲み込んだ。
 車から降りた想がどこか上の空な事に、若林が顔を覗く。
 想は暗い瞳を誤魔化すように微笑みを作りネクタイをきゅっと締めた。

「おじいちゃん、元気かな」
「オヤジは漣が辞めることを知らされてなかった。すんげぇキレてる。希綿さんと俺しか知らされてねぇからな。あとは会社の一部の奴らか」
「すごいバカにしてるなぁ」

 そういうことだ。と若林が苦笑いした。
 門まで行くと、武器がないか調べられ、そのまま上がらされる。
 広間の座敷にはどれもギラついた雰囲気を出しているヤクザの幹部が座っていた。一番奥に立花全が不貞不貞しい表情で座っている。
 想と若林が部屋に入ると、一斉にその視線に晒された。それでもそんな視線、屁でもない想は横目でそれらの視線を受け、立花全の前で腕を組んだ。
 頭は下げず、首を傾げた。

「久しぶり、元気だった?」

 わざと、本当に祖父に話すような口振りで挨拶をすると、部下が怒気を露わにして想に手を伸ばそうとした。
 それを立花全は制して、一歩出ると想の顎を掴んだ。
 抵抗も、怯えもせずに想はされるがまま、立花全を見つめる。立花全の怒りが指先から想に伝わってきたが、心がどこか足りなくなっていた想には立花全の怒りなど怖いとも思わなかった。
 以前に立花全にあったときは身体が震えるほど怖かった。これがヤクザのトップに君臨する人間かと、痛いほど感じさせられた。
 冷静な想の視線に、立花全が吊り上げた眉を下ろす。口元に笑みを浮かべて大きな声で想をなじった。

「おい!お前、捨てられたぞ!奴ぁどこ行った!?」
「知りません」

 唾を飛ばしそうな勢いで喋る立花全に、想は眉を寄せて静かに答えた。
 立花全は控えている部下に視線をやり、部下が動き出す。
 想は視界の端でそれを確認した。

「お前は幾ら貰った?手切れ金は幾らだ」
「……なにも」

 バカにしたように笑った立花全が想の顎を乱暴に放した。
 続いて膝をついているすぐ側に投げられたチャック付きのビニール袋。中には二本の指。
 想は無意識にその袋に触れようと膝を着いて手を伸ばしたが、その手を立花全に掴まれ、止まった。
 そして座敷に置かれた相当な数の大きなケース、その一つが部下の手により開けられ、想に見せるように傾けられる。綺麗に詰められた札束に、周りのヤクザ達がざわめく。

「これだけあれば、なんて周りは多目に見てやるようだが、俺ぁそうはいかねぇぜ!あのペテン野郎……柴谷の組を継いでおいて潰すたぁ……何様じゃあ!」

 そうか。バカにされた事を怒っているのか、と今度は想がバカにしたように鼻で笑った。

「ダッサ……怒ってばっかり。威張るしか出来ないお山の大将かよ」







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