根気良く、子供に言葉などを教えたが、子供は自分自身の名前を知らなかった。
 芝は『坊主』と呼んだ。
 それでもこの歳まで何もかも知ることの無かった子供は、スポンジのように全てを吸収し、人並み以上の才能を発揮して勉学に没頭していた。









 子供の住む部屋に家主の男は殆ど帰らず、帰っても興味がないのか小綺麗になり、血色もよくなっていく子供にすら気がつかなかった。時折放り込まれる水とパンが消費期限をとうに超えていることを、利口になった子供は分かっていたが口に運んだ。優しく、厳しく、様々なことを教えてくれる芝が、物を粗末にするなと教えていた。

「……じゃあな。っても、わかんねぇか」

 いつもより多い量のパンと水が入れられ、子供は男の言葉も理解していた。だが、わからないと思っている男の考え通り、子供は分からないふりをした。
 暫くか、二度とか、戻らないことを匂わせていた。男が出て行くまで、檻の中で無駄な時間を浪費する。
 早く本が読みたい。
 早く学びたい。
 子供はそんな欲に駆られていた。
 男が慌てて出て行き五分ほどしてから 子供が檻を開けようとレバーに指を掛けたとき、やたらと大きい声が響いて部屋に上がりながら壁やら床やらを蹴る音がした。借金取りだ。
 子供は檻を開けるのを止めて、いつも通り隅に行ってうずくまった。部屋を荒らして、帰って行くのを待つために。

「ちっ!帰ったって聞いたのにいねぇじゃねぇか!アニキ、無駄足でしたかね」
「あの野郎ふざけやがって!」

 ガンガンと台所の棚を叩き、子供の檻を蹴る。
 子供はただ、耳を塞いで膝に顔を埋めていた。ふと、アニキと呼ばれた男が耳を塞ぐ子供を見た。

「おい、あいつ耳を塞いでるぞ」
「はい?あ、うるさいからじゃないっすか」
「今までそんなことしなかったろ」
「育ったからじゃないっすか!」

 アニキ分は檻を開けると子供を引きずり出した。びっくりしたのか、目をぱちくりとさせてアニキ分を見つめる。
 髪は綺麗にされ、シャツはボロクソだったが、子供用の短パンを履いている。

「随分身なりもよくなってねぇか?」

 子供は恐がりもせず、ただ二人の強面のやり取りを床に転がったまま見ていた。実際、まともに育てられなかった子供には恐怖や怯えの感情は無く、最近やっと安心を感じられるようになった程度だった。芝のおかげで。

「どこでそんな服手に入れた!あの男か?!」

 仰向けでいた子供の顔の真横を足で踏みつけた。それでもきょとんとしたまま、子供は下からアニキ分を見上げるだけ。借金取りはろくでもない。芝が言った。子供は何も話さなかった。芝に迷惑は掛けられない。

「言わねえと腕を折るぞ。部屋の隅にある本も、どこから手に入れた」

 腕を踏まれて、子供は痛みに顔を歪めた。じわじわと加わる力に、口から声が漏れた。

「いた……っ痛い!」

 じわ、と涙が溢れ、子供は歯を食いしばった。

「止めろ!け、警察を呼んだぞ!」

 芝が玄関先から声を張った。
 チンピラが罵声上げて芝の方へ向かう。
 子供は静かに涙を溢れさせながら、助けに来てくれた芝を見ると胸の痛みにそこを押さえる。目から溢れるモノが何なのか、胸の痛みがなんなのか、分からずに混乱していた。

「し、ば……」

 その子を離せ!芝が怒鳴ると、若い下っ端が芝を殴った。
 老体はなぎ倒され、ドアにぶつかって芝は倒れた。
 子供が名前を叫ぶ。
 アニキ分が子供の口を大きな手のひらで強く押さえると、子供はその手を引っかきながら睨み付けた。

「静かにしろ。言うことを聞いたら爺さんに痛いことはしねぇ」

 アニキ分の言葉に、視線だけを芝に向けた子供が何度も頷いた。
 呻いている芝は、ふらつきながら起きあがるところで、目の前には下っ端が次の一撃を構えている。
 子供の必死の答えに兄貴分は下っ端を下げさせると、子供を担いでボロい部屋を後にした。

「名前は何つうんだ?」
「……ぼうず」
「ガキ!ふざけてんのか!アニキの質問にちゃんと答えろ!」
「うぅ……ぇ、うぇ……名前なんて、ないっ……!」

 子供は乗せられたら車の中でめそめそと泣きながら答えた。
 どうして泣いているのか、子供自身には分からなかったが子供にはそれを止めることが出来ず、感情が溢れていた。

「よし、岡田に身元を調べさせろ。これからは俺が育ててやる。しっかり学んで将来はキッチリ働けよ!」

 子供はアニキ分の話など聞いておらず、ただ芝の姿を思い浮かべては涙を流していた。
 遠くでサイレンの音が聞こえたが、子供はそれが何か分からない。
 初めて乗った車は、檻の中より息が出来ないように感じて、外を求めて窓に触れた。
 涙で濡れた指の後が窓に跡を残したが、すぐに乾いて消えた。

「いい子にしてりゃあ心配はねぇ。丁度同じ年頃の息子がいる。苛められねぇように涙は止めろ。謙太は泣き虫が嫌いだからな」

 訳も分からず、とりあえず頷いて、子供は涙を拭った。子供は頭も心も空っぽにし、これからの事も考えずに窓から見える限られた空を見上げた。

「さようなら、しば」

 微かな呟きが小さな唇から漏れて、消えた。
 泣いていたのが嘘のように、表情の無くなった横顔を見て、アニキ分は口端を上げた。

「まずは名前か。……金の卵ならいいんだがなぁ」



閑話、立花全の拾いモノ。



text top

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -