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過去、立花全の拾いモノ。
ふと、目を覚ますと汚い畳と新聞紙のいつもの箱の中。尿意に、部屋に男が居ないことを確認して静かに内側から外のレバーを指で上げて扉を開く。
男がいて、トイレを我慢できない時は紙オムツでしなければならない。
この檻からは男がいないときだけ、出られた。
大型犬用の檻だが、立ち上がることはもちろん出来ない為、膝と手で這って出る。
変わらず静かにトイレまで行き、全て出し終えて玄関を見る。時計のないこの部屋、窓にはダンボール。
玄関を開けて外を見ると、日はほどほどに高く、まだ午前だった。
「パチンコかな」
「よう坊主。今日は早くに出てったぞ。負けねぇといいな」
「八つ当たりは勘弁だよ」
「今日は何やる?こないだの背理法のおさらいするか?」
「……あれ、難しかった。言葉が難しいよ」
「六歳程度じゃあ無理か」
安いボロアパートのドアを少しだけ開いたまま、隣のドアの前で新聞を広げている老人と子供は親しげに言葉を交わした。
「計算がいい。すぐに答えがでるから。証明は嫌い」
「好き嫌いはよくねぇぞ」
老人が棒付きの飴を五本ほど入れた袋を子供に見せた。子供の顔に笑顔が現れ、玄関から出てくると老人が座るビールケースの隣に膝を着いた。
「背理法やるよ!無理数と有理数の続きも!」
薄汚れた大人のワイシャツに、同じく汚れたトランクス、靴は無く、だが髪は綺麗だった。子供らしい大きな瞳だが利発さを持っていた。
「よし、先に風呂入ってこい。野郎が来たらすぐ知らせてやる」
「ありがとう芝さん!」
子供は芝という老人の家に駆けて入り、狭く古めかしいタイル張りの風呂場で洗面器にお湯をためると頭から被った。初めて風呂場でお湯を浴びたのは一年前。恐ろしく怖かったが、芝に教わりながら今では一人で全て洗えるようになっていた。
「洗ったよ!」
「拭いてやるからこっちこい」
センター入試の過去問を渡され、付箋のついているページを開いて子供は芝の膝に座った。毛羽立つタオルで頭を拭かれながら、英語の問題に目を通す。
「うーん……えっと……芝さん、英語よく分かんないよ」
「俺は数学教師だったからな。英語は教えられるほど出来んかった。自分で頑張れ」
髪を拭く手は止まったが、タオルがいつまでも頭に乗っているため子供は怒って芝の膝を叩いた。
芝は謝りながらタオルをどかし、子供の頭を撫でた。
「坊主、引っ越すか。俺と来るか?」
芝の言葉に子供の全てが停止した。
芝もそれ以上言わず、チュンチュンとスズメの鳴く声が聞こえる。
子供は振り向いて芝を見ると、大きく頷いた。
*
既に70になる芝は退職後、離婚してひとり質素にボロアパートで1日を過ごしていた。
ある日隣の部屋から壁を引っかくような音が毎日聞こえ、気味が悪くなり壁を蹴った。すると、それはパタリと止んだ。
ネズミかと思ったが、今度はゴンゴン音がする。
芝は怖くなり、隣を見に行った。隣の男は殆どアパートにはおらず、毎日ギャンブルへ出ていた。借金取りが来ても留守では仕方ない。
部屋の鍵は借金取りに壊され、出入り自由だった。水もガスも電気も止まった部屋の奥からゴンゴンとぶつかる音がする。
芝は恐る恐る奥へ入ると、部屋の隅にある檻の中に痩せこけた汚い子供がいた。壁に頭をぶつけてリズムを取っている。
芝は恐怖から腰を抜かしてその場に尻餅を着いた。瞬間、檻の中の子供は芝を見た。異常に痩せた身体に不釣り合いな大きな瞳が不気味さを醸す。
芝が怯えながら後ずさると、子供はガシャンと檻にぶつかる勢いで芝の方に寄り、檻の隙間から指を伸ばした。
「あ、あ……う……」
「ひ、ひぃいっ」
狭い隙間に無理矢理指を捩込み、伸ばす子供に教師だった芝は恐怖を凌駕する何かに襲われた。
未だ震える身体を無理矢理動かし、檻から伸びる細い指に触れた。
「大丈夫かい……?」
3歳くらいだろうか。
言葉に反応はなく、触れた指先を凝視する子供に、芝は呼吸まで震えた。
そっと檻のレバーを上げて扉を開けたが、中は汚く匂いも酷い。
「こ、怖くないからおいで」
言っても分からない様子の子供に、両手を広げて見せた。しばらくの間、首を傾げながら芝を見つめていた子供が腕の中へ入ってきた。目は開いたまま、子供は芝の腕の中で芝の服を握り締める。
「お隣さんはもう一週間は帰ってないけど……お腹空いたろう。おいで。俺は芝孝雄。君は?」
子供の表情には何もない。言葉も分からない様子で、ただただ芝を見つめる。
「し、ば、た、か、お」
「い……ば……あ……」
「……よし、おいで」
檻の中に敷かれた新聞紙が噛み千切られているのを見た芝は、痛む心を奮い立たせて隣の自宅へ子供を連れて行った。
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