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黒い腕が肩を掴む。尋常ではない力の強さに加えて、自由にならない身体。掴まれた肩はあっという間に地に叩きつけられる。そこは地面でも床でもない、ドロドロした血液の中。
「っ……は……!」
急な覚醒に想の足がソファから落ちた。
視線を巡らせた想は、ほっと息を吐いた。夢を怖がることはいつからか無くなっており、冷静に目を覚ます。
部屋の隅の一人掛けソファには綿毛布を被って眠っているスノーが見える。遅い昼食の後、スノーと地下鉄で街へ行き、雰囲気を楽しみ美味しいケーキ類を食べた。それは二人の楽しい夕食となり、ここに戻ったのは午後の8時頃だ。
今は何時だろうかと壁のアナログ時計を睨む。薄暗いが、時計は夜中の1時を過ぎてきた。
想は速い鼓動を落ち着かせるためにゆっくりと呼吸し、もう一度寝ようと、毛布にくるまった。
ふと、隣のキッチンから小声だが何か言い争う声が聞こえる。ギロアの声と認識した想はそっと立ち上がってキッチンへ歩いた。
「あーホント、最悪だよ!俺は疑われてるし、外には見張りまでいる!最後に奴と話したのは俺だからな!」
「俺じゃない」
「じゃあなんだ!?ジズはどうやって毒盛られて死んだんだよ!」
「だから俺じゃねぇよ」
ーージズ。昼間の話では逮捕され、拘束されていると聞いたが、毒ということは自殺か、殺されたか。想は新堂の言葉を思い出す。『全部頂く』。まさか、と思った想が壁に手を付くと、ピリッとした痛みに慌てて右手を離した。
それから、対峙する二人の殺気立つ雰囲気に何と声を掛けていいのか迷いながら、キッチンに入った。二人の視線が一度に向けられ、想はビクッと姿勢を正した。
「……なんだ、ソウか……起きちまった?」
「スミマセン、喉が……」
ほれ、とギロアに瓶を投げられた想はなんとかそれをキャッチした。ビールだ。
「何かあったんですか?夜中なのに、真剣そうな声が聞こえました」
敢えて深刻そうでもなく、興味も無さそうに聞きながら瓶の蓋を指先で遊ぶ。お酒は慣れていない想だったが、仕方なしに蓋を空けて少しだけ瓶を傾けた。
日本のものとはまた、少し違った味がした。少し面白く感じてラベルへ視線を落とす。
新堂は複雑な顔でビールを舐める想を見て口元を隠すと、少し笑った。
「水がいいんだろ。無理するな」
「え!あ……大丈夫だよ」
言葉通り、ぐいっと飲み始めた想の手を止めて、ギロアが瓶を取り上げた。
代わりにミネラルウォーターを押し付けられる。
想が控えめに謝ると、強烈なデコピンが額を捉えた。
「っい……た」
「遠慮してんな」
軽い痛みに額を押さえた想にギロアが眉を吊り上げて怒る。
「もっと図々しくしてねぇと、大切なもの全部盗られるぞ。ちょっと理不尽なくらい俺様でいろよ」
「は、はいっ!頑張ります」
口答えしない想にギロアは思わず笑って、右手は大丈夫かと指差した。
想は頷いて、寝る前に替えたばかりの綺麗な包帯が巻かれた右手を軽く上げて見せた。
「明後日、つうかもう明日だけど朝一番の便が取れたからいい子で帰れよ。俺は今、誰かさんのせいで送りに行けねぇけど」
「ありがとうございます」
「お礼なんていらない。どんどんこき使え」
んだと!と声を荒げたギロアだったが、こほん!と咳払いをして軽く両手を広げて見せた。
新堂とギロアの姿が、日本での若林とのやりとりと重なって想は笑っていたからだ。
やっと笑った想をギロアは抱き、背中を優しく叩いた。
「今度がいつになるかは分かんねぇが、また会おうな。しっかり地に足着けて、レンなんてやめとけよ」
苦笑いして曖昧に頷き、想は新堂を見た。
微かに微笑み、二人のやりとりを見ていた新堂が追い払うようにギロアをへ手を振った。
ギロアは中指を立てて悪態を残し、キッチンの裏口を開けた。
「見張られてるのもウザイから職場で仕事するわ。犯人見つけねぇと俺がヤバい」
「すぐに建物を封鎖しただろ?」
「発覚から6時間締め切りだ。今はもう封鎖解除さてれるから、外部犯なら逃げてるだろう」
「駐車場の防犯カメラを徹底的に見たらどうだ?6時間分なら暇も潰せる」
また見ろって?と肩を落とすギロアの声を遮るように裏口はバタンと大きな音で閉められた。
「……大丈夫かな、ギロアさん」
「アイツは優秀だ。どうにかなるだろ」
「新堂さんじゃないよね」
想は新堂を見つめた。不安も怯えもないが、真意を求める眼差しはそらされない。
新堂も想へ向けた視線はそらさず頷いた。
「俺はここに居ただろう」
想の頬に冷たい指先が触れて、触れるだけのキスに目を閉じた。
「依頼はした。丁度ジズの薬の輸送ルートを欲しがってる奴がいてな」
まったく悪気もない声で『内緒だぞ』と囁かれた想は驚いたものの、口端が上がりそうになる。
呆れながらも、心のどこかでほっとしている自分がいた。彼らしい。
新堂の右肩に頭を寄せて腰へ腕を回す。
抱きしめ返す新堂の腕に想は右肩から左肩へ頭を移動させた。
優しく頬を寄せて目を閉じる。自身の所為で、と後悔する反面、自分のために追った傷だと思うと歪んだ心はふつふつと熱を帯びて満たされるのを感じていた。
「……いつか、俺も漣を助けたい」
どんな手を使っても、守りたい。ギロアが言ったように、理不尽なくらい図々しく自分の意志を貫けるようになるためにはどうすればいいか。想は権力も財力もない。あるものは何かと言われても何もない。新堂の肩から頭を離して考えることを止めた。
「ソファ使っていいですよ。俺は床でも慣れてるし」
「二人掛けだから隣で座れるだろ」
想は新堂と共にキッチンからソファの部屋へ戻り、スノーを起こさないようにそっとソファへ座った。
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