63
新堂がホテルに戻ったのは日付が変わった頃だった。部屋には灯りが点いているが物音はしない。新堂は広い部屋から真っ先に寝室を覗いた。
想はベッドではなく、窓際に置かれた一人掛けのソファに深く座り、膝にはゴシップ誌を乗せたまま眠っている。
新堂は起こさないように静かな足取りでリビングに戻り、着替える。そのまま荷物をまとめて何時でも出られるように準備した後、想の元に戻った。
頬にそっと触れると、もごもごと口元を動かしながら想が眠たそうに目を擦る。
新堂は自分の名前を呼ぶ口元にキスをして、首筋を甘く噛んだ。想から漏れた色気を含む吐息にさえ自分を呼ぶ声が混じっている様に感じて新堂は口端を僅かに上げた。
「起きろ」
『おかえりなさい』
寝ぼけ半分に新堂の首へ腕を回した想が甘えるように首筋顔を埋める。そんな様子の想に申し訳無く思いながらも、新堂は再び起きろと告げる。
「少し予定が変わって、これからホテルを出る。本当にすまない」
え?と首を傾げる想にライダースジャケットを羽織わせた。
状況に戸惑っている想も言われるがままサンダルから靴に替え、欠伸をしながら新堂に言われた通り必要な物だけ持つ。
他の荷物は後で届けさせるという言葉に頷いて、ボディバッグだけ持って新堂の後について部屋を出る。急いでいる様子はないが、あっという間に連れ出された想は『どうしたの』と訊ねてたが、回答は後回しにされた。
辺りは静かだが、廊下の灯りは明るく深夜だと忘れそうだった。想は小さく溜め息をして、それでもちゃんと新堂の後を追う。意味もなく自分を振り回すような男ではないと信用していた想は疑問もなく新堂の背中を見つめる。
ふいに、知った声に名前を呼ばれた。
発音がおかしい呼び方は、『そう』ではなく『そー』と。アリスの声に振り向くと、たった今まで感じていなかった殺意が全身にぶつけられ、想は息を詰めた。
通り過ぎたばかりの分かれ道にいたのはアリスではなく、左サイドを借り上げだ白人だった。隣には小柄な若い黒人が無表情に立つ。白人、ヘイラルの眉が上がり、ピアスが光る。手には大振りのナイフがあった。
たった数秒の出来事。
想は新堂が狙われていると思い銃を素早く取り出して男たちへ向け、チラリと背後を見た。
そちらでは前方に現れた男二人に新堂が銃口を向けている。相手の男たちの手にもそれぞれ銃が握られていた。
「俺ぁ消音器なんぞ付けてねぇからすぐに人がくるぜ」
黒人が撃鉄を起こす。新堂が冷たい声で冷静に言葉を告げる。
「目的は分かっているが、俺にはお前等が欲しがっているものをどう出来る権利はない」
「嘘だな。権利はなくてもどうにか出来るはずだぜアンタには」
睨み合う新堂と男たちの間で神経を張り巡らせている想だったが、なんの話かさっぱり分からずにいた。
それより想を不気味な悪寒に直面させているのはヘイラルの憎悪の視線だった。どこかで見たことがあるような、何故そんな視線をするのか、緊張もあり上手く整理できない。
「きっちり明日のこの時間までにホテル6つの譲渡を可能にしろ。出来なきゃコイツは返らない」
警戒していた想が背を預けていた壁のすぐ隣の扉が開き、何かが想を引きずり込んだ。
「想ッ!!」
新堂の声が聞こえたが、想はあっという間に暗い部屋に引き込まれた。
だが、想もそれに反応していた。一瞬で体勢を立て直し、引っ張られたジャケットを脱ぐと逆に相手の腕を捻り上げた。
「ぐっ……!!」
『ありす』
暗がりに見えたアリスの姿に想が視線を強めた。
腕を捻られたアリスが顔を歪めたが、長い足で苦し紛れに蹴り上げた。
それを避けた想の拘束からアリスはひらりと逃げて、二歩ほど距離をとった。
瞬間、部屋の外で聞こえた小さな破裂音と大きな銃声に想は弾かれたように新堂の元へ向きを変えようとした。
しかし、突然訪れた熱い痛みに膝から崩れて床へ身体が沈んだ。
「っ……!!」
外でも人が倒れ、黒人のひとりが部屋の外の明るい廊下に倒れている。
想は歪む視界でそれを見た。
新堂は無事か、身体が動かずそれを確認できない。
想の首に当てられたのは護身用などの非ではない動物用のスタンガンだった。
「くそっ!!!ダリルがやられた!」
ヘイラルは想の手首を拘束すると、肩に担いでベランダへ出た。地上45階にも関わらず、ヘイラルは想を担いだままアリスの用意した足場を渡って2つ隣の部屋に移る。足場はすぐに畳まれ、アリスが回収していく。
「ソーは大丈夫か!」
「こいつの心配かよ!ダリルが死んだんだぞ!」
ヘイラルは怒りを抑えながら想へ薬を注射したあと、洗濯を運ぶキャリーへ押し込む。
人の足音や悲鳴が聞こえてくる様子を見たアリスが早く出ようと促した。
ホテル従業員の服装をしたヘイラルと客を装ったアリスが部屋から出ても人は気にした様子はない。
上手く人混みに紛れていた新堂がそれに気付いたが、野次馬により追い付けない。
「くっ…!」
見えなくなっていく影に新堂の怒りが静かに内側を支配する。新堂は怒りに任せて追っては行けないと自身に言い聞かせた。
助けられるものも、死体では意味がない。分かっているのに、瞼を閉じる事も握る拳の力を緩める事も出来ない。
新堂はゆっくりと深く息を吐き出し、瞼を閉じた。冷静さを取り戻し、先を考えながら早足にスノーの元へ急いだ。
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