××してはいけない

「じゃあ、怖い話でもしようか」
 少しは涼しくなるだろうと言い出したはずの折原は「これは、今、即興で作った話なんだけど」と、怪談としても語りべとしても最低な前置きで話し始めた。
 年々更新されていく最高気温とゆだるような湿度に抱かれながら、それでもクーラーのえげつないまでの誘惑に負けずに居られたのは、この苦痛を共有する相手が居たからだ。門田は、折原が飲み干したアイスコーヒーのグラスに残った氷がみるみるうちに溶けていくのをぼんやりと眺めていた。

 早朝、ドアを蹴破る勢いで門田の部屋に乗り込んできた折原は「悪いんだけど、今日の外出は避けてくれ」と、企業秘密を漏らすまいとでもするように、小声で門田に告げた。流されるように「ああ、わかった」と素直に了承すれば、今度は「あ、それで今日一日、家電一切仕えないからそのつもりで」と、とんでもない後付けをしてくる。何とは無く何かを誤魔化しているのは分かったが、快く了解してしまった門田にはそれを追求する言葉など思い浮かぶはずもなく、ただ頷くしかない。折原は、押し付けがましくない押し売りセールスマンのようにトーク術が妙に長けていると頭の片隅で思った。
「…クーラー使えないとか、悪魔か」
 よりにもよってこの真夏日に。と、ようやく言葉になったのは、苦々しい苦言だけだ。それ以上の抵抗は、してみようとも思わない。ただ日中の地獄を思うとため息が零れた。
「ひどいなぁ。君の敵は悪魔みたいにえげつない連中で、俺は君を保護して上げてるんだから、守護天使と呼ばれたって良いくらいなのに」
 ひどいと言うわりには、表情は明朗としていて言葉と行動が伴っておらず、門田の文句は文句にもなっていないようだ。
「怖い天使も居たもんだ」
 実際に折原を信仰している人間が居るという事実があるからこそ、その台詞が薄ら寒くて笑えない。
 そして冒頭に至る。
 
 これは、今、即興で作った話なんだけど。昔から、安心感を与えるものは、ほんの一瞬で得てして不安材料に変わることがあるね。例えば、子供の笑い声。昼間の公園で聞けば、嫌でも平和をかみ締めてしまうような微笑ましいものだけど、それが閉鎖的な空間で、突然聞こえてきたら身の毛がよだつだろう。
 そんな閉鎖的な空間、そうだな、何か夜中のビルがいい。そこに男が一人、階段を上っていた。その男は、目的の階まで黙々と無心で昇っていたけれど、非常階段の蛍光灯を見て、ふっと自分の置かれている状況が怖くなってきてしまった。…たまに無いかい?暗闇の中とか、明かりがあっても一人きりの空間でふとなにか不安を感じてしまうこと。よく、風呂場で髪を洗っている時、目を瞑らなければいけないのが怖くて堪らないという子がいるよね。その感じ、君はわからないかな?そう、よかった。みんな子供の頃に経験があるものだよね、そいういった不安。そこで話を戻すんだけど、どうして男が蛍光灯を見て恐怖心を覚えたかというと、ほら、蛍光灯の下ってぼうっと明るくなっているだろう?暗闇の中から明かりの下へ向かうのは案外怖いものじゃないか。暗闇の中に居れば向こうも見えなければこちらも見えないわけだから。上がっていくまでにあの蛍光灯の下に何か居たらどうしようかとか、ようやっと通り過ぎても背後で何かがこちらを睨んでやしないだろうか、とか。思い始めたらきりが無い。あんまりにも怖いものだから、男は歌を歌いながら階段を上ることにしたんだ。それはもう陽気な歌を歌ってやろうと歌い始めたのが『俗っぽい恋の歌』。なんでその歌にしようと思ったかは、男にも分からないけれど、ふと頭に浮かんだのがそれだった。「会いたくて、会いたくて」なんて歌い始めて気付いたけれど、よく考えたらその歌はサビしか知らなかったんだ。それじゃあ仕方ないと、今度は何かのドラマの主題歌になった男性アーティストの曲を歌ってみる。でもやっぱりその曲も良く知らなくて、よくよく考えてみれば男がよく聞いていた曲はほとんど歌詞なんて気にしてなんか無かったもんだから、結局最後は鼻歌になってしまった。暗い階段に男の鼻歌が響くってのも、ちょっと不気味だろ?当事者の男はよりいっそう怖かった。それで困った男は、そうだと思いついたのが「童謡」。ふふ、より怖いって普通は思うだろ?でも彼はそう思わなかった。むしろ名案でも思いついたのかのように高らかに歌ったわけだ。「ある日、森の中、熊さんに出会った」なんてね。「花咲く森の道、熊さんに出会った」「熊さんの言うことにゃ」「お嬢さん、お逃げなさい。すたこらさっさっさのさ、すたこらさっささのさ」どう?選曲としてはなかなか良かったんじゃないかな。それこそ「さっちゃん」だの「しゃぼん玉飛んだ」なんかよりはストーリーもあって曲調も穏やかだし。男もだんだん気も楽になってきた。こうなれば足取りも軽い。…あはは、そう、よく分かってるね。そういう油断したところが危ない。調子に乗っていたりすると、余計にね。「変な歌だ」「お嬢さんは、何から逃げているんだろう」なんて考え無きゃ良いことを考えてしまうから。さて、こう、一つ考え事をしてしまうと、疑問っていうのは関係ないところからふつふつと沸いてしまうものさ。男は、突然思うわけだ。なんで目的の階に付かないんだろうってね。
「そもそも自分は、なんでこんなところにいるんだろう、と。男には階段を上る目的なんて全く思い出せないんだ」
 門田は、難しい顔をして腕を組んだ。これから突然折原が大声を出し、脅かしてくる可能性が高いため身構えたのだ。そういう脅かし方をしてくるのが、怪談の花だと門田は理解している。しかし分かってはいても、いざやられると必要以上に驚いてしまいなかなか格好が付かない。どうにか取り繕う準備をしていたわけだが、そんな門田の心中を察したのか、折原はぷいとドアを見て話を中断しただけだった。
「ところでキョウヘイ、お腹へらないかい?ブランチというのはなんだけどクラッカーがあるからチーズでものせて食べようか」
「それは…」こんなところで話を止めるなんてあまりに無体だろうと面食らって言いかけたが、止めた。折原にはそもそも怪談を語る気は無い。ただの暇つぶし。ただ口を動かしていただけだ。その証拠が冒頭の前置きである。
「…ワインのあてだな」
「葡萄のジュースならあったと思うよ。常温だけど」
「…まぁ、ないよりマシか」
 思えば、ひどく喉が渇いてしかたない。クラッカーよりもジュースよりも、一杯の水が欲しかった。

 カマンベールチーズの白いフワフワとした生白い表面を見て油断していた。分厚いそれにスッと果物ナイフの刃を入れたところ、予想以上にべた付くではないか。これでは均等に切り分けるのは不可能だろうと、早々に見栄えを諦め、半月にした片方を白い皿にのせて食卓に置く。温いグレープジュースをワイングラスに注いでいた折原はきょとんと門田を見た。それに有無を言わせまいとさっとバターナイフを添えてみせる。
「ああ、なるほど」
 一人納得した折原は戸棚からクラッカーを引きずり出してから、質素なブランチを前に手を合わせた。それに習うように、門田も席に着く。
 折原はバターをすくう様にクラッカーにチーズを乗せた。一つ摘んではグラスを傾け燻らせて、それっぽく振舞う。まるでままごとだと門田は思った。何もかもが、虚構の影を落としている。けれど決して嘘だけではないから、門田は閉口してしまう。
 折原はぐいっとジュースを飲み干して「そういえば、さっきの続きなんだけど」と行って、またためらいもなく作り話を作り出した。

 男は、ふと足を止めた。自覚したんだよ。俺には皆目見当が付かないけど、彼は何かに気付いた。気付いて、一人暗い階段を上がるのを止めた。

 意味深に微笑んだ折原は、空のグラスを静かに倒した。
「お前が天使とやらじゃないことはよく分かった」困ったように、グラスを立てて直す。相手はそれにまたジュースを注いで、門田の前に置く。
「それは最後にならないとわからないんじゃないかな。言っただろ?…たった一言で物語のラストは変わるんだから。例えば、『自覚した途端、男はベッドで目を覚ました。』とかさ」
「…」
「そうして、ドアが唐突に開いたと思ったらよっぽど夢みたいな同居人にたたき起こされる。人の記憶なんて儚いものだ。夢は毎日見ているけれど、覚えてない日だってあるだろう?…そんな些細な夢の内容なんて覚えていられるはずも無い」
 行儀悪くテーブルに肘を着いて、あごを掌に乗せて、折原は満足そうに微笑んだ。
「怖かったかい?」
 聞き終えるまでにひどく疲れてしまったので、特に反論することもなく門田は頷いた。
「ああ。いつの間にか当事者だ」
「世にも奇妙な物語風。好きだろ?…まぁ俺には君が『森の熊さん』を歌ってる方のが気味悪く思うけど」
「なんなら子守唄にでもうたってやるよ」
「きっと笑って眠れないな」
 想像したのか、さっそくけらけらと笑っている。折原は見かけによらず笑い上戸だなと見当違いな答えに行き当たっていた。
「…なぁ、君は何に気付いたと思う?」
「そういう想像力は俺には無い」
「でもヒントならあるじゃないか」
「なんだ?」
「何が怖い?何を怖いと思った?」
 これか、と門田は合点が言ったというように覚醒した。この寝物語の本質は門田のずっと内面的なものだ。付け入られる、そう思ったが途端に上手い逃げ方も考え付かずただ相手を見つめ返すだけに留まった。
「……さぁな」
 察しのいい折原だ。これで十分だろう。
 差し出されたグラスを持って一息で喉に流し込む。
 何がと問われれば、一人を怖いと思ったとしか答えられない。暗闇に一人階段を上り続けることに恐怖を感じた。そうして、これは夢だと気付いた。一人じゃないと気付いた。目を覚ませば、折原がいると。
 そう自覚したとき折原が扉を開いて、門田を助けただなんて、簡単には認められない。守護天使なんて薄ら寒くて、門田は苦々しく笑うしかなかった。


つづく


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