そのまんま、九巻ネタばれありです。閲覧注意。

−急患−



 ひたりと落ちる水滴は、零れた涙を連想させる。ビニールバッグを膨れ上がらせる液体の量と大げさな形状はまるでなにもかもの難病を治せてしまいそうだ。点滴注射にそれほどの効力が無いことを知っているからこそ、この安心感がひどく滑稽に思えてしかたない。気だるげな睡魔に抱かれ眠ってしまいたいと思いながら、手持ち無沙汰に点滴の管を眺める。垂れる雫の行方を視線だけで追って、雫が血管の中に消えていくたび一つずつ記憶を失していくような心地よさに酔いしれた。
 
「目が覚めた?」

 岸谷はいつも、ほんの些細な音も立てずに扉を開いた。
 個個人に差があるにしろ人間なら誰しももちえるある種の気配すら感じられないほどなので、時々折原は彼も人間ではなくなってしまったのではないかと心配になることがある。大抵は馬鹿馬鹿しいとすぐに脳の隅に追いやってしまうが、こうも人間らしさが感じられないあながちだと思わずにはいられない。何よりそんなことを考えて遊んでしまうほど、折原は今、暇を持て余しているのだ。
 しかし岸谷は、折原の心配をよそに普段以上に代わり映えのしない笑顔で簡単な問診を始め、くだらない妄想をしたばつの悪さから何もかも初めから気付いていたというフリをするために黙り込むと、今度は暇をつぶすように独り言を零した。体調管理についての説教から、ストゥルルソンへの愛と賛辞がツラツラと面白いほど流暢に並べられていく。特に恋人の話題になると、普段の理屈っぽい専門用語を置いて、彼の知る一番綺麗な言葉を選んで愛おしそうに声とした。ここで「独り言」と表現したのは、折原が相槌はおろか視線をやることもないためである。

「…気持ち悪いなぁ」

 満足いったと相手が一通りはなし終えるのを辛抱づよく待った折原は、辟易としていることを相手に知らしめるべくなんとも素っ気無いため息を吐いた。
 聞きたくもない惚気を聞かされてしまったこの不愉快な気持ちには、劣悪なものを崇拝する態度を罵るくらいが同等だろう。どうせなら口喧嘩になるくらいの取っ掛かりになれば良いと思う。
 重複するが、折原は今とても暇だった。

「なんだ、目を開けたまま寝てるのかと思った」
「俺が寝てたとしたら、君は寝てる相手に話しかけてるってことじゃないか。よけい気持ち悪い」

 お互い様だと思うけどなぁ、と微笑んだ岸谷は大して折原の相手をする気もないようだ。お決まりになった軽口の押収は、なぜか岸谷にほんの少しの人間らしさを齎した。
 日が昇るにつれ温くなっていく室温とクーラーが作り出す人工的な温度が、交わって日中独特の暖かさを孕む。細い手足を投げ出しているのはいくらなんでも心細いだろうと、ほんの少しの気遣いでまな板のうえの鯉になった折原に岸谷はひざ掛けを掛けてやったが、しかし日暮れには死んでしまう温度としりながら、この怠惰から一刻も早く逃れたいというように彼は身をよじった。

「君が寝ていなくて良かったよ」
「本当に寝てたら、絶対話しかけてこないだろ」
「こうやって軽口を叩くのなら、話しかけるかもしれないなぁ」
「…俺は眠ったら話さないし、死んだら立ち上がらない」

 今朝の東京は、まるで北国を連想させるような横殴りの吹雪でとてもではないが外出できるような天気ではなかった。それに加え体調不良と突然現れた化け物との対峙も重なり、まるで初めから予定されていたかのような手順で岸谷診療所を訪れることと相成ったのだ。折原が、人通りの少なくなった大通りで膝を突いたとき、倒れ込むさなかホワイトアウトしていく視界と降り積もる雪の中へ埋もれながら、いっそ春先まで雪の下で眠っていたいと思ったのはけして体調不良特有の行動抑制から感傷的になっていたからではない。

「立ち上がったところで…」
「…イザヤ」
「シンラは俺を見ない」

 目覚めを待つ春の息吹を、硬いアスファルトの上で感じた。それはどこか憤りにも似ている。疲れたと言葉にしたとたん、深い眠りへ誘われるような光の冷たさに安堵する。手を伸ばした先に、決して触れられないものがある。けれどそれは折原を満遍なく覆い隠す。本当は触れるのではないかという悲しい勘違いをさせる。

「人間の持つ狂気は、なによりも美しくて愛しいと、思わないか?」
「……」
「好きだよ、シンラ。君は安易に化け物になんてならないでくれ」

 見上げる岸谷の白衣の袖には、涙が滲んだような染みがあった。
 触れようと右手を持ち上げると、指先がわずか触れるより先に岸谷に手首を捕まれた。いたずらを咎められるようなくすぐったさが胸に広がっていく。思っていたよりも遥かに岸谷の手のひらは熱い。熱を与えるように両手で折原の右手を包みながら、岸谷は自嘲的な笑みを浮かべた。


「そもそも、だ」

 先ほどとは打って変わって、岸谷の声は地を這うように低くか細い。その表情と声色に、危機感を感じ取った折原は全身の毛を欹てた。岸谷がこうやって人間らしさを垣間見せるとき、大抵竹箆返しがある。

「君の興味関心は化け物に向かっているんだよ。人間を愛していると言いながら人間じゃないものに惹かれている。だから僕に興味を抱く。『自分とは違う世界を見ている僕』と同じものを見ようとする」
「……」
「でもさ『セルティを見ない僕』に、君はきっと興味を示さないんだ。ちがうかい?」
「……」
「見えないなんて誰が言った?最初に声を掛けたのは僕だって、忘れたわけじゃないだろ」

 指を絡ませたと思うと、ぎりぎりと握力を使って指を食い込ませる。このまま折原の右手の甲の皮膚を、岸谷の指先が突き破るのではないかと思えるほどだ。骨がミシリと鳴るころになってようやっと岸谷はそっと力を抜いて、甲に残った指の跡をなぞるようにキスをした。

「…まるで、不実を責められてるみたいだ」
「そう考えられるようになっただけ、進歩があったと思うよ」

 すっと立ち上がった岸谷は何事も無かったかのように注射針を抜いた。気づけば、点滴のバッグの中身はほとんどなくなっている。あれだけの量が折原の静脈へ流れ込んだというのに数十分前となんら変化は無いに思えた。熱が引かないのは、岸谷のせいではないかと疑い半分、こんなにも手のひらが熱いのなら雪に隠れることは出来ないな、とどこか夢心地ですっかり晴れ上がった窓の外を眺めていた。



終わり


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