今日の門田の一日にあった出来事を一つずつ上げていくと、今日は厄日であったと思わざるを得ない。
 まず、早朝けたたましいインターホンの音で目を覚ました。いたずらの幼稚さに一抹の不安を覚えながらドアを開くと、そこに居たのはやはり、ほかでもない昨夜父親になった男が晴れやかな顔つきで立っている。「何かようか。」と聞くと愚問であると目で語りながら「迎えに来た。」とだけ答えて笑った。
 暖かい風がドアの隙間から入り込んで、真新しい匂いに春を感じる。夢の続きを見ているような心持で折原の揺れる前髪を見ていた。
 それから急かされるままに一緒に登校し、あげく昼食まで共にしたのは特にこれと言って断る理由がなかったからである。決して、絆されているわけでも押しに弱いからでも無い、と門田は自分に言い聞かせた。
 さらに付け加えるならば共にしたというよりも食事をする門田の隣に折原がいただけのことであって、彼自身は門田と会話をしようという気配は微塵も無くそれどころか携帯を覗き込んでは一喜一憂してみせただけで、食事をする気配など毛ほども無かった。さすがに気になったので「飯食わないのか。」と門田が問えば「気分じゃない。」などと答える始末である。おせっかいかとも考えたが性分なので仕方がないとどこか投げやりに「気分で食事を抜くな」と尤もらしい説教をしながら、自分の手持ちの惣菜パンを差し出すと、こんどは初めて焼きソバパンを見たというような顔つきでそれを受け取った。
 特に感想もなく、パンを黙々と食しながら携帯を覗き込む折原にいったい何の企みがあるのか、そうして門田の傍にいるのかは皆目見当もつかない。が、しかしその不明瞭が生み出す空間自体には不思議と嫌な気はしなかった。ただし門田と折原という珍しい組み合わせに対するクラスメイトの奇異の目を覗けばの話しである。
 結局、折原は昼休みを門田のクラスで過ごし、チャイムが鳴る3分前ほどになって勝ち誇ったように「5時に中央改札」と、言い逃げして去っていった。たとえば折原の約束の相手が岸谷であったり、平和島であったりすればこのような理不尽な約束は約束とは呼べないといって無視したかもしれない。けれど門田の愚直な真面目さは、きちんと断りを入れられなかった自分にも非があると考えてしまうのだ。
 そういう真面目腐った理由で門田は5時10分前にたどり着くように改札口に向かっていた。また面倒なことになりそうだと吐いたため息は優しい春風に紛れていった。

「今日から、ここが君の家だから」
 寄り道しないで帰ってくるんだよとふざけ半分に言って渡されたカードキーはキーホルダーに見間違うほどのフォルムと質量である。
 改札口に現れた折原は「じゃあ、行こうか。」と、有無を言わさず先導をきって歩き出し、あっという間に広々とした家屋へと門田を誘った。
 促されるままリビングに上がった途端、先ほどの台詞が飛び出したのだ。
「……。」
 なるほど、父親になるということは門田自信が彼に匿われることであり、よって住居も一時的に彼に合わせて移転するようだ。折原との同居となれば、この家は自宅よりも何十倍も安全ということになる。何も、不都合はない。むしろ立地条件は今のアパートよりずっと良い。そうわかっているにも関わらず門田は絶望に似た何かが胸につかえて絶句した。
 「一応、このとおり生活必需品?と生活雑貨?はそろえてもらってあるけど足りないようなら、ネットか何かで買ってくれる?カード渡すから」
 言って差し出された黒いカードを安易に受け取れるはずもなく、いるか!と吼えたのは、折原の金遣いを咎めるためである。
「言いたいことは沢山あるけどな、とりあえず他人にそんなもん簡単に渡すな。」
「君は俺の息子だよ?」
「…じゃあ、つい昨日まで赤の他人だった息子にだ。俺が悪用したらどうする。」
「そんなこと言ってる奴が散財するほど他人の金使う勇気あるとは思えないなぁ。」
「そんな下劣な勇気あってたまるか。」
 想定内であったとはいえ門田の堅物ぶりに、ドカリとソファーに腰を下ろした折原は腕を組んでふむと考え込む。このままではカードを受け取らせるのは到底、無理だ。「母親のために」と言って取らせることはできるが折原自身よほどのことが無い限りその切り札を使う気は無かった。そんなことをすれば門田の信頼を得ることはできないだろうと思う。折原は今一番するべきことは門田の信頼を勝ち得ることである。だからこそ当面の仕事は片付けた。昼休みをつぶしてまで仕事もした。
 さて、門田の信頼を得ることにより折原になんの利益があるのかといえば、彼は今回、趣味の一環としてではあるが「同い年の高校生男子を息子として育てよう」と企んでいるのだ。折原の短い人生の中、さらにたった3年間という高校生活である。人間観察をする上でより非日常に近づけるのであるならば有功に使うべきだと判断し、非日常に置ける門田の内心的変化を観察するのはなかなか興味深い。
 勿論、具体的にどういう思考になるよう育てようといった洗脳という教育方針などはない。こちらの思うように動く人間を作るのは容易いが、それは折原の望む人間の姿ではなく、実験として楽しむならまだしも観察には値しない。あくまでも彼の趣味は「人間観察」なのだ。どう転んでもかまわないが出来るだけ予想できない行動を期待している。そしてなにより折原にさえ今後の展開は予想しにくいという魅力的な今回のケースを逃せばきっと一生後悔するだろう。「多額の借金を抱え込み母親が行方不明の上、同級生が父親になる」結構なプロローグではないか。物語としては三流だが、この際そのまでのクオリティーを求めても仕方ない。
 そして現実問題へと頭を切り替える。このままでは金銭的な保護が不十分なのだ。どこの家庭でも、親は子供の金銭管理をする。こずかいをあげるのは親として当たり前のことだよなと考えながら、思いついた妙案に折原が「…あ。そうだ、そうしよう。」と含み笑いしたのを門田は見過ごさなかった。
「断る。」
「…まだ何も言ってないけど。」
「言わなくて言い。どうせろくなことじゃねぇから。」
「カードが嫌なら、現金でこずかいあげるよ。そうだな、毎週日曜とかでいいかな?金額は…一般的な高校生のこずかい事情がわからないんだけど、いくら欲しい?」
「本当、人の話を聞かないなお前は。」
「聞いてはいる。」
 門田は、はぁとあからさまなため息を吐いた。彼は自分の意思とそぐわない行動を取らされる場合によくため息を吐く。
「必要ない。」
「わかった、毎週日曜に、一万円ね。」
 綺麗に作られた笑顔で笑う折原にはきっともう何を言っても無駄だろうことは明白だ。
「…好きにしろ。」
 またひとつ、ため息が肺から出て行った。
 じゃあ、とりあえず今週分と言って差し出された一万円札をさっさと受け取って制服のポケットにねじ込んだ。どうみてもお遊びにつき合わされているだけなのに、しっかりとした紙の感触だけが嫌に現実的である。
「部屋は好きなところ使ってくれて良いよ、言うほど部屋数はないけどね。あ、あと書斎は俺に譲ってくれ。」
 言い終わると、全ての興味がなくなったかのように携帯を開いてメールを打ち始めた。携帯番号を交換した方が良いだろうかと、ふと思ったがなんとなく連絡手段を欲している自分を想像すると薄気味悪さが募って行動は伴わなかった。

 部屋は階段を上がってすぐ目の前の部屋にした。
 十畳の部屋に、ベッドとデスクとクローゼットしかないせいかやけに広々として見える。荷物をベッドの上に放り投げると真新しい羽根布団が綺麗な波を作って深く窪んでいった。いったいどこからこんな金が彼に舞い込むのかを考えようとして、すぐに止めた。どうせ答えなどでない。
 さて、と思う。自分の身の回りのものは明日にでも取りに行けばいいとして、ではこれからどうし様かと辺りを見回し、ひとまず家の中をぐるりと回ってみることにした。
 折原の言う書斎は二階の一番奥の部屋だった。その一つ手前の寝室はおそらく彼が使っているのだろう。きちんと整っていたが、新品の状態ではないことからなんとなく、彼の生活感が伺える。折原が寝るところなんて想像がつかないなと、ぼんやり思っていると「何か面白いものでもあったかい」と声を掛けられ、門田はびくりと肩を揺らした。気付けば、折原が珈琲カップを片手に背後に立っている。
「世にも奇妙な物語みたいな現れ方するな。」
 折原のははは、という安い笑い声がやけに天井に響く。
「愉快な表現だ。…でもそうなると君は奇妙な世界へ誘われる哀れな主人公ということになるな。あの番組って物語の性質上、よく主人公は身近な登場人物に何かしらの疑いをかけるよねぇ。例えば親友の誰々が実は殺人鬼なんじゃないかとか、信頼していたけど本当は敵ではないかとか、まぁそれらは全て疑心暗鬼になっていただけで、疑っていた相手こそが一番正義感に溢れた人間味溢れる脇役だったりするわけだ。そして結局諸悪の根源は自分だったなんてのも良くあるシナリオかな。まぁ…何がいいたいかって言うと、そんなに警戒するなってことなんだけど。」
 苦笑いをする彼が寂しげに見えたのは目の錯覚だろうか。はたまた油断させるために本当にそういう表情をしてみせたのかもしれない。悪名高いくせにいつでも取り巻きをつれていることを考えると、そういった相手の懐に飛び込むすべを心得ているのだろう。にも関わらず「でも」とグルグルと回る思考を、一瞬だけ止めて、これでは本当に愚鈍な主人公になってしまうと自分をいさめた。
 どうせこうやって惑うことになるなら自身の思うとおりに動くことが最良の選択だ。
「別に、警戒なんかしてねぇよ。ただ少し驚いただけだ。」
 彼の表情を、そのままの感情と取ったほうが、門田にとっても彼にとっても一番良い。嘘とわかって、信じるのはとても簡単なことだと思う。
 折原はすぐに表情や雰囲気を変え、明朗と場違いな問題提起をした。
「そう。ところで、夕食なんだけどさ、明日からはお手伝いさんが来るから良いとして、今晩は何も用意が無いから外食か、出前になるけどどっちが良い?」
 気がつけば夕日は沈みほんの少し赤みが残っているばかりだ。日が伸びたとはいえ、今日一日の終わりがあっという間に来てしまったことにほんの少しの焦燥を感じた。何も進展していないけれど、時間だけが著しく変化している。追いつけるだろうかと考えてはひどく精神を疲労させた。
「いい、俺が作る。お手伝いさんてのも呼ばなくて良いからな。金払ってまで家事してもらう必要はない。」
 抵抗するように門田は折原の提案を拒否した。なんでも良いから「no」といいたい気分だったというのもある。
 答えも聞かず、先ほどの一万円で何か材料を買ってこようと、そそくさと階段を下りると、後ろで「…まぁ、その方がより親子らしいかもね。父子家庭で子供が夕食作ってくれるって自慢する父親のコラムどっかで読んだ気がするし。」と折原が独り言を呟いていたが門田にはほとんど聞こえてはいなかった。折原の辺りには、ただ夕日で温められた空気だけが沈殿していた。

 用意を始めたのが遅かったため、彼らが食卓に着いたのは、八時を回るか回らないかという時間帯であった。
 シチューと鱈の香草焼きとトマトのサラダ、まるで女子高生が恋人に手料理を振舞う時のような大人しい献立に、折原はただ必死に笑いを堪えた。折原の予想ではこれでもかというほど味の濃い肉料理や丼物だったのでより一層、面白おかしく感じてしまう。勿論こちらの献立のほうが遥かに好ましくはあるわけだが。
 スープ皿にはゆったりと湯気をたてるクリームシチューがなみなみと注がれている。門田と対面するように食卓に着くと、すぐに匙を差し出された。
「クリームシチュー好きなの?」
 スープ皿を覗き込みながら、呟く。差し入れた匙は白濁してはすぐに弾かれ零れ落ちていく。
「別に。ルーが安かったからってだけだ。嫌いだったか?」
「いや?」
「なんだ、買い物に出てからお前好き嫌い多そうだなって気付いて、結構迷った。」
「まぁ、基本なんでも食べるよ。変に気を回さないでくれ。」
「なんだ、野菜とか嫌いそうに見えたけどな。」
「好きか嫌いかは別として、食べるってことさ。」
 父親ってそんなものだろと、どこか誇らしげな彼に、結局嫌いなんじゃないかと思いながらスープ皿をスプーンでかき回す。相手のスプーンには先ほどから一向に口に入っていかないニンジンが申し訳なさそうに乗っていた。
「君は、何が好きなのかな。父親としてはぜひ聞いておきたいんだけど。」
 折原は嫌味なまでに父親を強調して話した。
「食いもんでつられるような歳じゃねぇんだが。」
「親は、こどもの好物を知ってるものだろう?じゃあ嫌いなものは?」
「…子供の頃は、無難なものが好きだったな、ハンバーグとかラーメンとか。…で、レバーと豆は食えなくは無いけど好きではなかったな。」
「今も?」
「今は別に」
「なーんだ。好きなものもないわけ?」
 心から残念だと言わんばかりの態度に、「強いて上げるならカレー。」なんてポツリと零してしまったのは門田のお人よしが災いした結果だ。
 折原は満足そうに微笑みじゃあ、今度作るよと言いながら、ようやっとニンジンを口に運び咀嚼するとあっという間に嚥下した。
「あ、そうだ、すっかり忘れてたけど俺は家に帰ってきたら君のことキョウヘイって呼ぶから。君はお父さんて呼んでくれ。」
「…断る」
 強気で答えながらも、折原の押しの強さに、いつの日か「親父」と呼ばされる自分を想像し、門田は本日最大のため息を吐いた。


続く

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