―窒息メイト―




 ナイトの狙いを無視して、キングは一歩前進する。首の皮一枚で繋がった状況を相手が楽しんでいることにむかっ腹が立ったが、それでも門田は初心者にしては辛抱強くキングを捕らえる術を考えていた。

「往生際が悪い」

 じっとチェス版を睨みつけたまま、呟く。

「留めさせないくせに」

 含んだ物言いをする折原に、返す言葉などあるはずも無い。
 高く上った太陽がなにもかもを怠惰にさせていく中、颯爽と現れた折原は門田から文庫を取り上げると目の前で、コンビニで売られているような簡易チェス板を振ってカシャカシャと音を立てた。「ルール知ってる?」「知らない」そんなやり取りをしながら渡されたのは、安易に駒の動かし方とルールが書かれた取扱説明書だった。紙は机の木目を映し出してしまいそうなほど薄く、小さな文字と真四角の図でかっちりと埋められている。そのルールと等しく、余白すら規律正しい。

「やらない?俺に勝てたら、何でも欲しいもの一つ買ってあげるよ」
「ずいぶん羽振りが良いな」
「掛け金がないとつまらないだろ?勝負事は」

 小さな駒を指先でつまんで、チェス版にのせるとあっという間に軍隊が二つ出来上がった。
 折原はただ攻撃だけを仕掛けてきた。まるで門田に駒の動かし方を教えるように、ポーンなら斜め前に、ルークなら直線状に、取られることを気にも留めずにぽんぽんと駒を進めてくる。それでいて初心者に気を使っているのだろうかと安易に誘いに乗って手を出すと、今度はいったいどこから狙っていたのかというようなところからあっさりとルークを持っていかれてしまうのだ。してやられたという顔をして楽しそうに笑うわりに、一気に止めを刺すことも、それどころかもたもたと枡を確認してから次の手を考えることをせかす様子も無い。折原がゲームボードから目を離したのは、「暑い」といって窓をほんの少し開けた時と一手終えて「寒い」と言って閉じた時くらいだ。
 ふと紙から視線を上げると無表情とは違う穏やかな顔の折原が、数少なくなった駒を愛でていた。不思議な光景だ。普段からは想像もつかない表情である。そんなにも思い入れのあるゲームだったのかと、驚き「チェスが好きなのか?」と問ったが返ってきたのは「別に、好きとか嫌いはないなぁ」と、あまりにもそっけない返事だったので内心ガッカリしながら相手から奪い取ったポーンを掌で転がした。
 取扱説明書と睨みあい、何か特別なルールが発生するだとか罠が仕掛けられていないかどうかを確認しながら恐る恐る、差し出されたとしか思えない白い塔をチェス板から下ろす。顔色一つ変わらない折原には、なにかまだ切り札が残っているのだろうか。不安になるがしかしどう見ても今、相手の手駒は孤高に聳えるキングと王を置き去りに敵陣に切り込んでいるナイトだけだ。

「チェック。これは…俺の勝ちで良いだろ」
「せっかちだなぁ」

 言いながら、折原はキングを一歩後退させる。これで、門田のビショップは白のキングに攻撃することができなくなった。おそらくこうやっていつまでも逃げて、こちらをからかう気なのだ。そもそも掛け金が掛かっているというのに、わざと自らが負けるように仕向けている部分も気になる。

「俺が勝ったら、好きなものくれるんだったな?」
「ああ、約束だからね」
「お前が勝った場合はどうする?」
「…どうした?急に弱気じゃないか」
「別になんもねーよ、ただなんとなくお前の思い通りってのが気に食わないだけだ」

 思い通りねぇと、考え事をするように顔を伏せる折原は、次の一手に困っている風を装っている。どうせもう彼の中で筋書きは出来上がっているのだ。もしかしたら門田がこうやって展開を変えよとしていることすら折原の手の内かもしれない。音楽でも聴くようにゆらゆらと指先で黒のビショップを弄っては、けしてそれに視線を投げることは無い。じっとボードを見つめる折原は、門田にも視線を返すことが無かったのでその分、彼を正面から眺めることができた。さらりと流れる前髪を横目に、数分後の場面を想像する。
 勝てたのなら、告げる必要があるのだ。自分のほしいものを。
 それこそが折原の想定どおりなのだと思う。言わせてどうするかは門田には予想もつかないが、そうでなければ、彼が負ける理由がわからない。

「そうだな…何にしようかなー…」
「勝つ気なのかよ」
「そりゃあね。掛け金があるなら俄然やる気になる。でも、何がいいんだろう。罰ゲームとかが良いかな」
「欲しいものはないのか」
「…無いわけではない」

 カチリ、磁石が音を立てて今度は一歩前進して数分前と同じ位置にキングが立つ。

「何が欲しい?」
「月をねだる空しさなら知ってるんだ」
「…お前に、泣いてまで欲しがるものがあるとは思えねぇな」
「まぁドタチンには想像もつかないものだろうね」
「そうか」

 黒のビショップを使うことになんとなく嫌気が差している自分がいる。近寄れて一枡空け。けして白の枡を踏むことの無い駒でキングを追うのは、鏡の向こう側を追いかけるようなものだ。消して触れ合うことの無い絶対的な境界線。それでも複数の駒で追い込めばそう時間もかからず手に入ると考えていた。たった一駒なのだ、と。

「もし、それを欲しがったらドタチン、くれるのかな?」
「勝ってもないくせに…」
「チェックメイト」

 人差し指で弾かれた黒のキングの位置には、白のナイトが中心を図ったかのように綺麗に置かれている。

「…なんだ、全然気付かなかった」
「うん、キングばっかり見てるからだよ。…でもこれ正式なチェックメイトじゃないんだよね。スマザード・メイトって言って引き分けなんだ」
「…引き分けなんてあるのか」
「滅多に無いことだよ」
「……」
「窒息メイトって言ってね、守ろうとして壁にした自分の駒が、邪魔をして逃げられなくなるんだ」

 折原は苦笑した。しかしそれは勝負に勝敗がつかなかったという理由ではなく、自身の往生際の悪さに自嘲したのだ。
 欲しいものがある。ものというよりは望みや願いというのかもしれない。ただ捕まってしまいたかった。手を伸ばした先にいて欲しいと思ってしまった。叶わない願いほど、残酷なものはない。隠し事すら、あっさりと崩れ去ってしまいそうなのだ。損得を捨て置いて、この想う気持ちに答えを望んでいる。その反面、永久的に変わることの無い立ち居地に満足していた。満足感は不思議と変化を嫌う。怖がる。

「残念だったねー。何か欲しいものがあったのかな?なんだったら無利子で貸してあげようか」

 折原は勝負の中でチェスを始める前と、後と、最も自分にとって楽になれる選択肢を探していたのだ。だから守備を蔑ろにしながら、終盤になって止めを焦らした。長い死刑宣告に、先に根を上げたのは折原だったのだ。

「いらねぇ」
「さすがドタチン、潔いな」
「潔くなんかねぇよ」

 不意に顔を上げれば、いつからそうしていたのか、門田の揺ぎ無い視線がそこにある。

「…次は、捕まえるから覚悟しとけ」

 カシャリ、机から落ちた駒とボードは音をその姿で表現するかのように見た目に騒々しく散らばる。何も言えなくなった折原の足元に、白黒入り混じった駒が横たわりながらその無常さに不平を零した。ルールも枡も境界線も、人間の足の下にそんなものあるはずがないだろうと訴えるように。


終わり



prev next




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -