高校生



―飛べない鶏はただのチキンです―
 


 
 冬の風の匂いがする。折原はごうごうと吹くソレをひどく嫌がった。身を縮めてどうにかやり過ごそうとする姿はどこか微笑ましい。いっそのこと身を委ねてしまえばいのだ。知らず知らずのうちに体は外気に慣れていく。そうするのがことの成り行き上、最も自然で無難だろう。そもそも気温になどそう簡単に抗いきれるはずもない。冷たい向かい風に抱かれるような感覚は悪くないのになと、門田は思っていた。
 折原イザヤの足取りは思いのほか遅い。気付けば、彼がきちんと左半後ろを歩いているか、一々横目で確認している自分がいた。振り返ったらそこに居なかったなんて、ありえすぎて笑えない。彼はふいに立ち止まる。風に吹かれるようにいなくなる。

「俺の、どこが好き?」

 静かに、それでいて風にまぎれてしまわない程度に、折原はからりと笑った。女みたいなことを言うなと門田は苦笑したが、「言えないなら別れて」と折原は笑顔でのたまってみせる。その心境は、皆目見当がつかない。
 
「そんなことで別れるような関係なのか、俺たちは」
「そーゆう逃げ方は、女の子にして上げるべきだね。…わからないんだよ、本当に。俺ってほら、つくづく嫌な人間だろ?何が楽しくて傍にいるのかなってずっと疑問だったんだ」

 見るからに難しい顔をした門田に、含み笑いで腕を絡める折原は不自然なほどはしゃいで話した。風が冷たすぎて、彼の笑顔は温度を失ってしまったのかもしれない。作り物だとわかる作り笑顔は、泣き顔に良く似ている。

「ちょっとしたゲームじゃないか。ほら、あの電柱のところまでに俺を言いくるめられるような口説き文句が思いつかなかったら、さよならしよう」
「…ゲームか」

 たった一人で始めたチキンレースで、門田に多額の掛け金を預けた。試すというよりももっと原点に近い、言ってしまえばそれ以前。頭の端でそっと数分後の未来について考える。自分が立ち止まってしまえば勝負には負けるけれど、きっと掛け金を失うことは無い。門田が立ち止まったら、掛け金は倍になって返ってくる。これが一番良い結果だろう。折原が一番望む結果ともいえる。
 しかしもし万が一にも立ち止まらなかったら。おそらく全てが掌から落ちていくのだ。そうして、大切な物が無くなったことに安心する。もう二度と失くすことに怯えなくてすむようになる。
 折原は心のどこかでその「万が一」を待っていた。
 迷うことなくすたすたと前を歩いていく門田の表情は半歩遅れた折原の位置からは見えない。もしも折原が立ち止まったとしても彼が気付くことは無いだろう。それが切ないと思うこと事態が、折原は傲慢の象徴だと思った。独占欲を満たすために、彼を縛り付けていったい何が満たされるというのか。
 そう分かっていながら、ほんの少し歩幅を狭めて自分と電柱までの距離を遠ざける。もしも門田が先に辿りついてしまったら、振り返ることなく来た道を戻るつもりでいた。みっともなくその背中を追ってしまわない為だ。惨めでもいいと、どうにか縋ろうだなんて考えたりしないように。こんな時、折原は世界の全てが恐ろしく感じた。たった一人の人間が自分をいとも簡単に傷付ける。ほんの些細な出来事が、あまりにも大きな損失になる。なってしまう。

「…どうした?」

 まるで折原の思考を見越したかのように、門田は淡々と声を掛けた。

「ゲームなんだろ?逃げるなよ」

 わかってると言ってすっと前を見る折原は、たった今、ほんの一瞬で門田を諦めた。そうさせたのはお前だと、言うように門田を追い越して歩みを速める。ふと、折原の背中を久しぶりに見たなと門田は思った。
 平和島から逃げる折原を何度、切ない思いで見送っただろう。追いかける意味も引き止める権利も、持ち合わせなかった頃が確かにあった。追いかけるべきだったと、引き止めるべきだったと分かっていて実行に移したことは無い。なぜ、無駄だと思ってしまったのか。彼はこんなにも近くにいたのに。こんな、腕を伸ばせばすぐ掴めてしまうほど、近くで風に怯えながらたゆたっていたのに。
 襟足のマフラーに指を入れて引っ張ると、折原から何ともいえない奇妙な声が漏れた。

「なに!?」
「…そうやってすぐ不安そうにするところ」
 
 振り返る折原の手を取って、はぁと息を吹きかける。

「頭良いくせに考えすぎるとこも、変な真面目さも、…寒がりなところも」
「……」
「好きだ」

 自分の頬に、相手の掌を押し付けてため息を吐くように呟く。じわりと温まる自分の頬と、相手の掌の温度が一緒になるのには後どれくらいこうしていたらいいのだろう。

「『ずっと』っていつからだ」
「…なにが」
「いつから不安だったのかって聞いてる」
「…ずっと。ずーっとだよ。ばかやろう」
「そうか」

 拗ねたふりをして歩き出した折原は、門田の手を握ったまま相手のコートのポケットの中に手を突っ込んで「これで同じ速度で歩ける」と、独り言のように呟いて微笑んだ。かっかと汗ばむその手をきつく握り返して門田は「好きだ」と言って笑う。聞こえないフリをする折原は、羞恥から手の甲に爪を立てて抗議した。
 目も開けていられないほどの強風が彼らを抱く。けれどもう、二人には寒さを感じている余裕は無かった。



終わり





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