―nice to meet you―





 凛と澄んだ空気はあまりにも冷たい。
 競うように勢いよく吸い込むと、冷え固まった酸素が肺でとろけた。まるで別世界をひた走るように、音はなりを潜めている。平和島にはそれが当たり前のように思えた。彼にとって必要ないものは自然と淘汰されていく。必要になればまた聞こえるようになるのだろうと、どこか投げやりに思っていた。
 必要な音だけが聞こえていればいい。必要なものが眼に宿るのならそれだけでいい。
 平和島には折原を消さなければならないと本気で思っていた過去がある。そうしなければ自分の崩壊が目に見えていた。自己防衛の一種だった。一方的に高まった感情は拒絶された途端、行き場を失い淀んだ惨めさを生む。そのまま消えてくれれば良いものを、感情は肥大化して平和島をより一層苦しめた。心は身体のように鍛え上げられていくことはない。好意を寄せる相手に蔑まれる精神的負荷に対して、心が弾き出した対処法は諸悪の根源の消去だけだった。
 折原の存在を忘れたいと本気で思っていた。苦しんで、苦しんで出した解決策は平和島には不釣合いなほど消極的である。自分自身、女々しいと思わないわけではない。けれどそれがただ一つ思い浮かんだ解決法なのだ。そしてそれと同時に、忘れることはできないのだろうと奥歯をかみ締めた。
 折原は平和島にとって、自我を成り立たせる上で著しく必要な存在だった。
 
 やっとの思いで辿り着いた折原の事務所は、手探りで探しものをするにはあまりに暗い。外から見えていたので不思議では無かったが、それでもカードキーを差し込んだ掌は震えた。彼が待つ場所はここであっているだろうか、と。実際はもっと違う場所なのかもしれないと考えるたび頭を振って前を向いた。それだけ二人には(なんだかんだと言いながら)記憶を共有できるスペースが合ったのだ。例えば二人が始めてであった校舎だとか折原の隠れ家だとか、思い返せばきりが無い。だからこそ折原を寝室のベッドの中で見つけたときは安堵した。
 折原は水底に沈むように眠っていた。
 ためらいながらも、その髪に触れることができたのは、まだ日が昇っていないからだ。いつの間にか叩きこまれた空想は、後遺症になってまで平和島を苦しめている。日が昇ってしまえば、夢から覚めてしまう。そうなる前にと、そっと相手と唇を合わせた。自分自身に証明してやらなければならないのだ。今この瞬間が夢でないことを。折原に触れるこの手が幻でないことを。
 彼がまだ生きて、ここに存在しているのだと。

「起きろよ」

 沈黙が横たわった部屋に、平和島の声はあっという間に飲み込まれた。

「頼むから、起きてくれ」

 しかしてどうか神様だなんて、祈れるほど信心深くは無いのだ。願うべきは神にではない。全てを煙に巻くような、彼の声だけが平和島に啓示を与える。暗闇に浮かび上がる手首の白さに、平和島はひどく恐慌をきたした。

 夢を見ていた。体が腐り落ちていく夢を。
 どうにか逃れようと必死で身体を抱きしめた。両腕を胸で絡めて背を丸める姿は、傍から見たら単に寒さから逃れるため自分の体を抱いて蹲っているように見えるかもしれない。強い風が吹くたびに腐った血肉は灰になって飛んでいってしまう。鑢で擦られているような痛覚があったと思ったが、改めて考えてみればそんなものほんの少しも無かったようにも感じる。それでもなお、入るはずのない力を込めて腕を抱き寄せると、唯一残った骨までもボロリと崩れてしまった。コロコロと音を立てて床を転がる細長い骨は、一回転するごとにその形状を無くしていく。そのなかの一つを拾おうと前かがみになった時、拾うはずの掌が無いことに気付いた。その瞬間、ようやく自分の腕が無くなったのだと実感した。
 絶望感の勢いに任せて床にその身を投げてしまえば、ぐしゃりと卵がつぶれたような音がする。すでに感覚は麻痺していたがなんとはなしに肩がつぶれたのだと分かった。それは物悲しいまでの無気力を誘う音だった。
 あっさりと抵抗を止めてしまえば、嘘のように、穏やかに身体は腐敗していく。同様にして心も不思議なくらい落ち着いていた。ただ一つ困ることがあるとすれば腐った瞳が濁って、あたりを真っ白にしてしまうことだ。叶う事なら、最後の一欠けらがサラサラと舞う様子を目に焼き付けたいと思っていたのだが、どうやら眼球は予想より早く崩れてしまうらしい。確かに骨や筋肉に比べれば溶けやすそうだもんなと、どこか他人事のようである自分を嘲笑した。
 涙腺からは、涙では無い何かが溢れている。
 まだ温かさの残るその液体は、頬を伝っていくなかで温度を失い不愉快な冷たさを残した。心のどこかで、ソレを拭ってくれる誰かを待っていた。名前を呼びたいと思った。呼べる名前があることに驚く自分がいた。けれど声はすでに失われていた。後悔はしていないし運が悪かったとも思わないが、もしも名前を呼ぶことができたなら自分のためだけに駆けつける誰かの為に涙を流しただろうと思う。たんに感傷的になっているだけだろうが、どうしてもただ愛しくて涙が零れたことだろうと、そう、思う。想ってしまう。
 けれど涙を流す間も無く、折原イザヤはその形状を失った。
 最後に飛んでいったのは頭蓋の欠片とそれに張り付いた髪の毛だった。絹糸のように白くなった髪の毛が、風に舞う中で光にまぎれて見えなくなった。こんなにも綺麗になくなってしまえるのかと、爽快感すら感じる。そうしてなぜか意思だけははっきりとその場に存在していた。ただぼんやりと宙に浮いたままの折原は気付いた。自分はもう「無い」のだと。
 おそらく誰の彼の記憶も、先ほど崩れ去った肉体のように消えてしまっていることだろう。不安などない。全ての失敗をやり直せるのだからむしろ好都合だ。誰でもなくなった自分が、最初に自己紹介する相手は決めてある。まだ彼の温度を覚えている。彼が名前を呼べる相手として存在していたことを覚えている。けれど恐々とあわせた唇の感触を思いだして泣きたいような気持ちになった。今にも泣きそうな顔をしていた彼は…、そもそも彼とはいったい誰だっただろうか。心配になったが、すぐに思い直した。自己紹介から始めればいいのだ。全て初めから、何もかも。そう、だから、自分が一番最初にするべき挨拶は。

「…じめまして」

 最初の「は」は残念ながら音にならなかった。改めて「はじめまして」と声を掛けると、相手は目を見開いて驚いたような表情をした後、すぐにくしゃりと顔を歪めた。何か失礼があっただろうかと、折原の澄んだ目は訴えたが、平和島は訴えをさえぎるようについと視線をはずしてしまう。

「あんた誰?」
「……」
「なんでここに居るわけ?ここ、俺ん家だよねぇ?」
「…手前」

 だらしなく力の抜けた肩が、かすかに揺れる。ぽかんと見つめる先の相手の目には、どちらにも疑問が生じていた。
 目覚めた折原にあるのは、ほんの少し残った夢の欠片と、気だるさと、警戒。目の前の男に対して抱いた感情は、目覚めるどころか深い海のそこで眠っている。端的に言えば、折原には平和島が認識できなかった。

「あれ?もしかしてどこかで会ったっけ?…んー?俺記憶力は悪くないほうだと思うだけど。…ごめんぱっと思い出せない、誰だっけ」
「何ぬかしてんだ」

 戸惑った様子の相手に、同じく戸惑いを隠せない自分との問答にならない問答は、ひどくややこしい問題を抱えているように思える。
 ふと、携帯電話が視界の端でチカチカと規則的に光っていることに気がついた。開いてはみたがしかし中身は何てこと無い内容のメールが届いていただけである。ただ一点、気になることがあるとすれば携帯電話は普段眠る前にサイドテーブルにおいている為、ベッドの中にまで持ち込んだことなど一度無いということだ。どうしてここに携帯があるんだと、普段だったら気にも留めないようなことがどうにも気になって仕方が無い。いったいなぜ?まるで忘れてしまった夢を思い出すように、拙い記憶の糸手繰り寄せていた。

「…イザヤ」

 自分はこの声を知っていると、漠然と思った。自然と電話を握り締める掌に力がこもる。じわり掌の温度が携帯電話に移っていくこの感覚には覚えがあった。前にも、掌の温度と携帯電話の温度が同じになったことがあったはずだ。こうやってきつく、祈るように携帯電話を握り締めていたことが過去にあったと、確証は無いが確信している。

「(なにかの連絡を待っていた?いや、連絡はあったんだ。連絡があったから待っていた。何を?…違うな、誰かだ、…誰かを待っていた。俺はいったい誰を待っていたんだ?)」

 縋るように見つめる相手の目にも、見覚えがあった。どこかで、この目を見たことが有ると記憶が燻っている。

「(なんだ?何を忘れている?…何かとても大切なことだったはずだ。大切な、約束だったはず…)」

 部屋は耳鳴りがしそうなほど静まり返って、苦しいほど高まる鼓動が折原の今有る記憶を否定していた。先ほどまで成りを潜めていた太陽は、こちらが思っているよりもずっと早く空に持ち上げられている。カーテンの隙間から射す光に、照らされたとき、霧が晴れるように今までの疑問に答えが出た。あっというまに真実が見えた。

「ああ!分かった!思い出した!」

 高揚してにっこりと微笑む折原は、さきほどまでの拒絶をあっさりと解いて柔和な雰囲気で平和島を見つめる。確認するように、試すように、じっと視線に捕らえられたままの平和島が感じるのは、暴かれたような居心地の悪さとそれを凌駕してしまうほどの安堵だ。

「そうだ、なんで忘れてたんだろう。シズちゃん、君はシズちゃんだ」
「……」
「そうだ、そうだった。君は池袋の喧嘩人形で、一世代で進化した化け物で、俺の同級生だ」

 ぽんぽんと平和島の肩をたたきながら、夢ではないのだと確かめる。すっかり何もかもを思い出した折原には、先ほどの悪夢もすでに悪夢ではなかった。

「夢の中でさ、ずっと君の名前を呼びたかったんだ。でも思い出せなかった…そう、シズちゃんだ。やっと思い出せた、こんなくだらないことがなんだかすごく嬉しいよ」
「るせぇ…」
「…シズちゃん」
「うるせぇ!ばかみてぇに連呼してんじゃねぇよ!ざけんなうぜぇ!」
「……」
「くそ…」

 ぐったりと頭をたれた平和島は、かすれた声で不平をもらす。まるで子供のような態度に呆れかえったフリをしながらそっと涙を拭ってやれば、自然と唇が重なり合った。

「泣くほど嬉しい?」
「…黙れ」

 そろり伸ばされた無骨な指先が、折原の髪を梳く様に滑っていく。消えることの無い白い世界で目を覚ました夢を、みているようだった。





おわり



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