―拝啓、加害者様―


 帰宅した平和島を待っていたのは、無常なまでの沈黙だった。
 部屋というものは、人が一人消えただけでここまで冷ややかになるものなのだと痛感する。折原はそれこそ死体のように生命であることを隠したが、それでも確かに彼の心臓は動いていたのだからどんなに耳を済ませてみても、この美しい静寂は決して覆ることはないだろう。そう理解しながら、家電の電子音でも良い、いっそ耳鳴りでも良いから何か音が聞こえやしないかと必死で耳を済ませた。けれどやはり空気が振動するようすはない。
 ぐったりと、この数週間で疲弊した体をそっとベッドに横たえる。予想通り消えてしまったはずの温もりを求めて伸ばした腕は、むなしくシーツを撫でるばかりだ。昨日の晩まで確かにそこにあった体温は、微かにもその温度の欠片を残してはいない。どこかに縛り付けて置けばよかった。逃がしてしまうなんて愚かだったと、漠然と思う。勿論、覆らない現実を前に、それはただ空しさを忘れるための現実逃避でしかない。しかし彼にとってその空想は今、何よりも必要なものだった。
 一人残されることがこんなにも心細く感じるのは、きっとどこかで何かを期待していたからだ。馬鹿馬鹿しい。どうして今更、手に入るかもしれないなんて考えてしまったのか。
 強引に押し倒した。相手がどんな表情をしていたかなんて全く覚えていない。むしろ顔を見ていないのかもしれない。無意識に、相手の瞳を、声を恐れてそれとなく押さえつけていた。もしも泣いていたら?もしも、他でもない「誰か」の名を叫ばれたら?考えれば考えるほど事態は泥沼と化していく。もし、そうだったとして、俺はあいつをどうするつもりなんだ。答えの無い自問はひどく惨めに思えた。だから嫌なんだと、ひとりごつ。
 外の街頭から齎される光は、平和島の心を逆なでするように穏やかだ。
 ふつふつと湧き上がってくる怒りと、それを抑制指定してしまうほどの虚無感で頭が狂いそうだと、クツクツ笑った。きっともう狂ってしまっている。そうでなければ世界が消えてしまえば良いだなんて無意味なこと考えるはずがない。
 何もかもが可笑しくて、不意に涙が零れた。
 手持ち無沙汰に持ち上げたコップを掌から落とす。小気味良い音と共にゆっくりと、永眠を思わせるような眠気が彼を抱いた。

 チカチカと暗闇に青白く光るそれは、ほんの数週間前に無くしたはずの光だった。
あれほど待ち望んだ光であることに違いは無いが、その色はあまりにも白々しく物悲しさを語っている。その光が何を知らせているのかを、忘れることなど出来るはずがなかった。ベッドから飛び起きて携帯をそっと(勢いあまって破壊しないように)、わだつみの光に触れるかのように優しく開いた。途端にあたりに広がる黄色い光の中に一件、浮かび上がる文字。
 
「おりはらいざや」

 何か、とても大切な呪文を呟くように小さな声でかの人の名前を読み上げる。はやる気持ちでコールセンターへ問い合わせた。ドクドクと心臓が爆発しそうなほど高鳴って、ただ一人の声を待ち望んでいる。全身の血がそちらに回ってしまったのだろうか指先はまるで自分のものとは思えないほど、動きが鈍い。
 アナウンスの声が遠くに聞こえた。それだけではない、何もかもの音は音にならない。けれど彼の声だけは不思議と、まるで天の啓示のように足の先までじわりじわりと染み渡っていった。

「寒いから、早く帰っておいで」
「……」
「シズちゃん」

 彼は平和島の名前を呼んでいた。確かに彼の名前を呼んでいた。目の前にある真実に、肌があわ立つ。突然、暗闇に光が射すように全てが見えた気がした。
 折原はずっと平和島を呼んできたのだ。どうして気付かなかったのか。彼は記憶の無くなった平和島をいつもと変わることなく、あのからかう様なあだ名で呼んでいた。彼に彼自身を忘れて彼ではない誰かに生まれ変われと言いながら、変えることなく呼び続けていた。シズちゃん、シズちゃん、シズちゃん。頭の中を反響する、彼の声に奥歯をかみ締めてあらゆる感情を堪えた。今は違うのだと、痛いほど分かっている。このどうしようもない気持ちを叫ぶのは今この場ではない。
 気がつけば、財布と携帯だけもってドアを蹴破っていた。折原が凍えているというならば、そこへ今すぐ駆けつけなければならない。が、ふと我に返って掌の中の携帯を見つめ、リダイヤルを選択して通話ボタンを押す。相手が出たら、出なくなるまで切るつもりでいた。けれど期待通り折原が通話ボタンを押すことは無かった。
 お決まりのアナウンスの後「夜明けまでには帰る」とだけ入れてすぐに切った。
 かじかむ指先に縋りつくように収まった携帯電話を、お守り代わりに新宿へ向かって走り出す。壊さないように、握り締めたいのをどうにか抑えながら。

「さみぃ」

 空が白み出す前に、たどり着かなければならないと平和島は意気込んだ。折原は一度だって、留守番電話に残した約束を破ったことは無いのだから、と。


つづく


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