―結んで開いて―



 蝶の飼い方なんて、知らない。
 何をどうやって食べさせるべきなのかとか、どういう環境におかなくてはいけないのかなんて、きっと捕まえてからでしか調べようとは思わない。そしていざその時になって調べたとしても、それは本の記述通りに蜜を吸わないし、気ままにガラスの内側を飛んで見せたりもしないだろう。
 自由を奪われた蝶はじっと一緒に入れられた草の葉に縋って、まるで精巧に作られた紙細工の様に、ただただ美しい沈黙を守る。そこに生命の気配などは毛ほどもありはしない。こちらが存在を忘れてしまいそうになるほどひっそりと空間に溶け込んでいくのだ。さも、はじめから此処に居ましたよとでも言う様に。
 けれど本当は、そうしている間にも刻々と蝶の命は削られている。
 彼らはちょっとした、至極些細なことで、その短い生涯を終えてしまう。例えばそれは日光が直接彼に降り注いでしまったとか、猫がいたずらをしただとか。その美しい羽に魅せられ、熱い指先で弄んだとかいう理由で、繊細な魂は氷のように呆気なく溶けて消える。そこに残された滴りを、人は後悔と呼んだ。自らを愚か者と罵るに値する、その水の清らかさは誰も彼も不幸にする。そういうものだ。それがいったい何であれ、死は後悔を伴う。ぼんやりと、折原は自分の寿命を考えていた。
 このまま惨めに生かされる意味とは何か。ふと、虫かごの中で死んでいく蝶が、どうしてああも完璧な沈黙を守ることができるのかがわかった気がした。

「口、開けろ。食わなきゃ指一本ずつ潰す」

 けれど人間が蝶のように気高く死んでゆけるはずも無く、人質に取られた小指に力が入る前に、差し出される匙を咥えこんだ。みっともなく生に縋る以外、折原に出来ることは何も無い。
 平和島はごっこ遊びをしている。空しい一人遊びだ。生憎、彼はまだ空しさにさえ気付いていない。独占欲だけを滴るほど満たして、満足してしまっている。好きなときに肌に触れ、適宜に食事を与えて悪戯に生かす。それだけで十分。それだけが今、彼が唯一欲するものだ。今さら空虚なんて言葉、浮かぶはずが無い。人形相手のままごとに返事を求めないのと同じこと。平和島は折原がどんなに静寂を保とうとも、安易にそれを受け入れた。まるで初めからそうであったかのように、まるで昔から彼は言葉を発することが出来なかったかのように、意見はおろか返事も求めない。

「何か欲しいもんあるか?」
「…帰りたい」
「ああ、そういえば歯磨き粉切れてたな。ついでに石鹸も買ってくるか」

 気付いた時、彼はいったいどんな顔をするだろう。
 蝶の羽に戯れに指を絡めたことを、手に入れることの意味を履き違えたことを、自分の頬に流れる後悔を堪えることも出来ないまま、嗚咽を漏らすだろうか。

「…シズちゃん」

 存在を確かめるように、名前を呼ぶ。平和島がその呼びかけに答える事は無い。彼の鼓膜へ彼自身の名前は届かない。そう願ったのは折原だ。折原自身が「何もおもいださないでくれ」とそう、彼に牽制をかけた。約束を忠実に守る彼の心持など分からない。分かりたくもない。何も聞かなければ、何も知らないでいられる。そう、思っているのは折原ばかりではない。だから平和島は折原の声を求めない。
 寒いと言ってやれば、ここに留まるという意思表示ととらえて、彼は喜ぶだろう。わかっているからこそ折原は口をつぐんだ。本心から帰りたいと願っているわけではなかった。ただ、平和島が自身の存在を認めるに当たって、折原こそが弊害になっているという事実がある。
 
「何、考えてやがる」
「俺はあとどのくらい生きるのかなーってさ。暇な人間は大抵死ぬことばっかり考えるんだよ、古代ギリシアで哲学が生まれたのはそんなこと考えてる余裕があったからだって誰か言ってたな。誰だったかわすれためど。でも間違いないと思うよ。だって俺は究極的に死ぬことばっかり考えてるし」
「…死にてぇのか?」
「死にたいと言って殺されるのはさ、自殺なんじゃないかと思うんだよね。だからといって死にたくないといったら君は俺を殺せないしね。さて、じゃあ俺はいったいいつ死ねるんだろうと、そんなことを日がな一日考えていたよ。まぁ神様を信じていない時点で『死にたい』というべきなんだろうけど、残念なことに神様に縋りたいくらいな気持ちではあるんだ、ああどうか助けてくださいってね」
「……」
「あー、考えただけで嫌だな、君に殺されるなんて。でもこのまま生かされているのも嫌だ。死んでるのと変わらないだろこれじゃ。だからねぇ、頼むよ、もういい加減、離してくれ」
「……」
「ねぇ、シズちゃん、いい加減起きろよ。こんなのおかしいだろ、頼むよ。本当に、俺まで頭がいかれそうだ、ああああ嫌だ、もう嫌だ!こんなこと、死にたい、今すぐ死にたい!いっそもう殺してくれ!」

 あがく折原を押さえつける、この瞬間がいやでいやで堪らない。ぎしりとなるスプリングに、解けてしまうのではないかと思うほど深く掌は沈みこんでいく。さきほどまでそれこそ本物の人形のように表情を映さなかった相手の顔には苦痛が刻まれていた。せめて痛いと叫んでくれたなら、その表情に(たとえコンマ何秒だったとしても)早く気づくことができたかもしれない。
 平和島の腕力を前に、あっさりと引き下がった折原は全てを諦めるようにゆっくり目を閉じた。身をゆだねるというよりも、魂が抜けていってしまうような、ささやかな呼吸に息を呑む。脆くて今にも止まってしまいそうなほど、優しい呼吸音にどうしようもない気持ちになった。
 誰しも幼いころ、蝶を捕まえて遊んだ経験があるはずだ。そうやって命の儚さを、子供たちは複雑な思いでまなんでゆく。それは平和島も例外ではない。
 あの蝶の羽はいったい何色をしていただろう、と平和島は思った。白かったような気もするし、淡い青色だたような気もする。そんな程度の記憶であるのになぜがムキになって追いかけていたことだけはよく覚えていた。花から花へなんて歌詞のとおりにひらひらと舞う蝶は、何度となく幼い指先をいとも簡単に逃れた。そうして少年を愚鈍だと馬鹿にするように、すぐ隣の花で羽を休めてみせる。ふつふつと沸くその感情は怒りというよりは癇癪だ。捕まえることだけが目的だった。そのあとの蝶の行方などかすかにも考えていなかった。

 どんなに握り締めても、あの淡い色をした小さな蝶の感触なんてわからなかった。掴んだ瞬間消えてしまったのだと思った。つかめてさえいないと勘違いした。きつく、きつく握り締めた掌の温度をまだ覚えている。指先があんなにも冷えていたのは、けして寒さに凍えていたわけではない。爪が食い込むほどきつく握り締めていた指の力を抜いた時、ようやっと拳を握ったことを後悔した。
 蝶の片羽がひらりと足元へ落ちていく。あの、なんとも言えない空しさと拙い思考の愚かさにいったいどれほどの辛酸を舐めたことだろう。
 捕まえることは出来ても、所有することはひどく難しい。わかっていたことだ。初めから。ずっと、ずっと昔から知っていた。

「でもこうするしか、わからねぇんだ」

 指先に触れた、折原の首がどくりと動く。温かな血液が皮膚の下を巡っていることに救われたような気持ちになる。まだ生きてる、まだここに存在している。浮き出る静脈に指を這わせれば、爪の先に痺れるような感覚を覚えた。

「わかんねぇよ、どうしたら良いのかなんて。手放し方も、忘れ方も、俺は結局、誰にもなれねぇんだ」
「……」
「いっそもう殺したい、でも殺せない」

 泣いているのかと、折原は思った。それほど切実な声だった。

「…くだらない、こんなの、ただのごっこ遊びだってまだ分からないのか?」
「そんなことはじめからわかってる。でも、それでも」
「本当にひどいなー、シズちゃんは。どうしていつもそう、何も見ないんだ。おかげで狂ったフリも意味がない」

 折原が笑ったことに平和島は気づいた。ここへきて初めて、彼が笑顔を見せた。

「手前、」
「やぁ、シズちゃんやっと目が覚めたみたいだね。でも残念、俺はひどく眠いよ」

 そういって折原は再び目を閉じた。いつの間に夜が明けたのだろう。折原はいつも光の中で眠りにつく。
 疲れたように眠る折原の唇に、そっとキスをした。名残惜しいと、思わないことはない。けれど鍵はかけずに部屋を出た。眩しすぎる日差しと、相対するような冷たい空気が肺で穏やかに混ざりあう。
 蝶を埋葬した時と同じ朝が巡ってきたような気がした。


つづく



prev next




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -