―夢の夢―

 眩しすぎて目が逸らせない。
 折原は死んだように眠っていた。早朝のほんの数分間だけ、このベッドルームは差し込んだ光で溢れる。その様子をじっと見つめる平和島には、いっさいの時間感覚が無かった。ほんの数秒のようにも、数時間のようにも感じながら必死に折原の黒髪に反射する白い光を目で追っていた。そこに意味なんてものは概念すらない。一人取り残されるような寂しさと、名称も無い感情が入り混じるのを感じながら成すすべもなく立ち尽くす。触れた途端、全てが消えてしまうことなど分からないはずも無かった。たとえ泣きたくなるほど、その髪に触れたいと願っていたとしても。たとえ、全てが嘘だったとしても、だ。ただ嘯くだけでこの真っ白な部屋は、この真っ白な時間は守られる。いっそのこと眼窩に焼きつけたまま両の目をつぶしてしまいたいと、思った。
 吸い込んだ空気が酷く甘くて、眩暈を起こしそうになりながら、そっと部屋を出る。振り返ってドアを閉める瞬間、折原が微笑んだような気がした。

 「ずいぶんと仲良くなったみたいじゃないか」

 トリックスターは嫌な笑い方をする。
 そうかもねと返す折原は対抗するようにそれは、それはすがすがしい笑みを浮かべた。「主治医」という肩書きを押し付けながら現れた岸谷は、早々両人を見据えて、心底愉快なものを見たというようにほうとため息を吐いく。「何しにきたの」そういって、口元だけで笑う折原に岸谷は「診察だよ」とやはり口元を歪めて言ってのけた。腹の探りではない、むしろお互いに腹を割っているといっても良いくらいの仲だ。目と目が合えばソレで十分、何を言いたいかなんて口にするまでも無い。
 折原は岸谷に牽制を掛けていた。現状を維持したいということだろう。折原は折原なりに、平和島に対するちょっとした感情に気付いた。そしてその感情について、無責任に放任しようとしている。しかし妥協による安寧なんて君には似合わないよと岸谷の目は言う。分かっていると、眉をひそめる折原には、何一つ理解できているようには見えない。

 「仕方がないなぁ」

 呟く、岸谷の役どころはトリックスターだ。彼らを、物語を正しく導く必要がある。それがたとえどんな結果を齎そうとも。どれだけ彼らを苦しめても。そして勿論、彼らも重々承知しているのだ。岸谷が一歩踏み入れるたびに、静かな個室の平穏が淀んでいくのが面白いほどわかる。ただ一人、虚構を暴く人間が居るとすれば、それこそが彼だ。
 折原を部屋から追い出した岸谷はソファーにゆっくり腰を下ろすと、対面に座る平和島ににっこりと意図的に微笑んだ。

 「気分はどうだい?」
 「別に」

 その笑顔に全身の毛を欹てて警戒してしまったのは、いっそ本能と言ってもいいだろう。それほどに完璧な微笑みだった。

 「はは、そんなに警戒しないでよ、僕らは友達だろ?」
 「ああ」
 「…もうそろそろ2ヶ月になる」
 「……」
 「ふふ、別に僕は構わないけどね」
 「…その笑い方やめろ、胸糞悪い」

 パキリ、掌の中で何かが壊れる音がした。ソレとほぼ同時に、テーブルの上に取っ手だけが粉々になった珈琲カップが転がり、液体が木目に沿って広がっていく。二人はそれを視界の端で捕らえながら、まるで別の次元で起こったことのように無視した。本題を前にして、殺気立つ平和島にとってそれは石ころが転がったのと大差ない。同様に岸谷にとっても珈琲の行方などどうでもよかった。

 「君の記憶は48時間以内で戻るはずだった」
 「……」
 「それがもう2ヶ月。おかげで予定が狂ったよ。本当は記憶が戻った君が、調子に乗ったイザヤに報復をして、しばらく、まぁそれこそ1年くらい動けなくなる程度の怪我を負わせると思っていたんだ。だって同じ区内に居るだけで苛立つって言うくらいだから、同じ空間に24時間以上居たら、それこそ君の意思とは関係なく爆発でもしそうだろ?」
 「……」
 「でも君はこの部屋に居る」
 「…何が言いたい」
 「だから、そんなに警戒しないでって。別にだからどうってことは無い。君に何か目的があるなら、かまわないんだ。僕が口を出すことじゃない」
 「……」
 「でもね、こうやって2ヶ月間見てきたけど、どうにも現状を打破しようとする気配が見えない。むしろこの状態を維持しているように見えるよ」

 君も、イザヤも。冷めた珈琲にほんの少し口をつける岸谷の顔にはもう笑顔は無い。

 「それじゃあ困るんだ。いい加減、セルティも返して欲しいし」
 「…イザヤは」
 「……」
 「あいつは、俺が元に戻ることを望んでない」
 
 きょとんと岸谷は相手を見つめたがその視線は平和島と合わなかった。平和島の視線は何か記憶を辿るようにずっと左下にある。

 「君は?君はそれで良いの?わかってるだろ、彼が受け入れたのは平和島シズオじゃない。それで君は満足できるの?」
 「ああ」
 「なぜ」
 「セルティのことは、わるかったと思ってる」
 「逃げるな、僕は理由を聞いているんだ。…全く理解できないよシズオ。君は自分の存在を自分で否定してるんだよ?正気の沙汰じゃない」
 「…ああ、そうかもな」
 「救えない」

 岸谷は、一つため息を吐くとすぐに立ち上がった。しかし平和島はそれが当然といった具合に視線を上げることは無く、やはりどこか遠くを見つめている。何がいったい彼をそうまでさせるのか。理解できないと、岸谷は思う。今までだって散々、暴力で解決してきただろう。今更、何を躊躇う必要があるんだ。そう思ったが、しかし平和島は岸谷の心情を見越したようにゆっくりと笑った。岸谷から見ても、酷い笑顔だった。

 「…あいつの髪を、ずっと触りたいと思ってた…」
 「……」
 「ずっと、ずっと…。だからだと思うけど、まだ触れない。…怖くて…さわれねぇんだ。目が覚めちまうってわかってるから」

 頭を抱える平和島にかける言葉も見つからず、岸谷はただ「ばかだね」と言ってその場を後にした。
 いつまでそうしていただろう、ぼうっとテーブルの下に珈琲が滴って行くの見つめていた。気がつけば、あたりは薄暗い。そっと覗きこんだ窓の外では、もう夕日が射していた。朱色が紫に飲まれていく。恐怖すら覚えるような、不穏な美しさ。
 ふいに、折原はこの部屋に居ないのだと気付いた。そしておそらく、もう戻ってこないことも分かっていた。
 ただ、じっと携帯を握り締めていた。けれどやはり留守番電話に連絡が入ることは無かった。朝日が射しても、また夕日が沈んでも、携帯が鳴ることは無かった。
 目を覚ますときがきただけだ。そう、頭で理解しながら、夜が明けるまでずっと帰りを待つ自分は、やはりただの愚者なのだろう。優しいフリだってよかった、ただそこに居てくれれば良かった。
 部屋の温度はゆっくりと平和島を、穏やかな夢へ誘う。目覚めてしまうのが、あまりに惜しいほど優しい夢へ。

 「…好きだ…」

 泣いてしまいそうだと思うのと涙がこぼれたのは、ほぼ同時だった。


続く


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