―留守番電話―




 気付くと、目で追っている。
 広い室内であっても、平和島の視界の端には常に折原がいた。ずいぶん前に持たされたカフェオレを舐めながら、彼が書類と携帯を交互に見比べてあちらこちらへひらひらと歩くさまをそっと伺う。彼のスリッパはペタリペタリと床を撫でた。その音に底はかと無い心地良さを感じる。柔らかいものに触れた時のような、穏やかで何かに焦れる様な感覚。それは早々に折原に窘められた感情にちがいない。けれど平和島にはどうしても自分のことが自分自身で理解できなかった。そんな苦い気持ちを甘ったるいカフェオレと一緒に飲み干ほす。食道を焼け付くような甘さが降りてしまうと、後にはただ舌先に苦味の痺れだけが残った。
 折原はいつの間にか居なくなる。
 ふと気付くと、彼の気配はあまりにも自然に消えている。平和島がこの部屋へ足を踏み入れてから2週間ほどたった頃から、彼は頻繁に外出及び外泊をするようになった。しかし平和島がそのことについて何か質問や意見をするつもりは無い。しても仕方の無いことだし、どうせ欲しい回答が無いことを知っている。
 ただ、一言くらい声を掛けて欲しいと思っていた。彼の根無し草は平和島を少なからず動揺させている。もう戻ってこないかもしれないという拙い憶測を立ててしまうほど、折原は幽霊のようにそっと消えた。だからという表現には語弊があるが、平和島は心のどこかで、このまま足音が続くよう願っていた。
 平和島が自室を与えられているにもかかわらず、いつもリビングに居るのはこのことに由来する。他でもない、折原がいるから。それだけだ。折原は平和島を気にも留めないし、平和島自身も折原に話しかけることは無い。しかし平和島にとって同じ空間を共有することに意味がある。
 暇になると平和島は、どんな態度で、表情で、何を言ったら彼がここに留まるのかを考える。勿論、それを実行にうつすつもりは無く、そもそも良い引き止め方など平和島には思いつきもしない。いったいどうしたら、彼は自分と一緒に居てくれるのだろう。単純な疑問だ。しかし彼らは目の前にある真実に気付けない。否、見えないフリをしている。それを認めてしまうのが恐ろしくて、恐ろしくて堪らない。だからこの自問自答は堂々巡りを繰り返す。
 彼にとってこの感情はとても理解しがたい感情なのだ。何しろ否定されてしまったのだから平和島にはもう選べるカードは無い。捨てるのか掌で暖めるのかは、相手次第。折原次第だ。それを受動的に無意識下でこなしていく。折原の手の内は、平和島には分からない。分かりたいと思うが分からないだろうことを彼は知っていた。折原には秘密が多すぎる。

 重複するようだが折原は不意に居なくなった。
 そして大抵の場合、平和島が持たされている携帯の留守番電話に、いついつ戻るとおの連絡が入る。なんとはなしにその留守電を消せずにいた。正確には、新しく入った連絡だけ残し、ひとつ前のものは消していた。そうすることで唯一残った彼の声に奇妙な安心感を覚えるのだ。慰められるような、はたまた酷く腹立たしいような。なんとも歯痒い気持ちがする。
 なんて小さな約束なんだろう、と思う。明日、折原がこの部屋に戻る確証などない。けれど確信する。彼は戻ってくる。この約束さえあれば、彼は絶対に帰ってくる。むしろそれ以外に何を信じれば良いというのか。
 平和島の願うとおり、折原は伝言とおりにこの部屋へ舞い戻った。お帰り、そう言うたび折原は少し照れくさそうに笑う。その笑顔を見ることが出来るなら、ただここで待つのも悪くないとすら思えた。出て行っても良い、けれど行かないで欲しい。矛盾が犇めき合って相殺される。言葉と思考が死んでいく。しかしそんな残骸のような願いは、そうであってもやはり願いであることに変わり無い。

 「何?」

 だからこそ平和島が玄関で、彼の腕を掴んだのは全く意図しない行動なのだ。
 用件などあるはずも無く、良い訳だって思いつかない。じっと相手からの反応を伺いながら「なんでもない」と呟く意外に何ができただろう。わけも無く気まずさを感じてしまう。暖房で温くなった空気が煩わしくなるほどの後悔が、平和島の頭を埋め尽くしていた。

 「あー…ちょっと、出てくる」
 「…ああ」
 「夜には帰るけど、晩御飯は適当にすましちゃって」
 「わかった」
 「…なんかお土産欲しい?」
 「…いらない」

 途端、折原はニッコリと微笑んだ。

 「甘いもの買ってくるよ」

 そう言って平和島の頭を撫でる彼は、何もかも全てを見透かしているのではないかと思えるほど優しい目をしていた。わけも無く泣きたくなる。ああ、彼はこんなにも穏やかに笑えるのか。ひらひらと振られる掌をいつまでも見ていたいと思った。ドアの向こうから射す光にすら嫉妬する自分がいる。
 折原を見送った後、手持ち無沙汰に留守電を消した。ただなんとなく、だ。なんとなく必要ないと思った。
 その瞬間、悲しいほど幸福を感じた。他の何もかもを失っても良いと思えるほど、幸せだった。



続く


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