―そうか、君はもういないのか―




 不器用な右手が、所在無げに彷徨っている。
 真夜中。否、午前5時半ならもう早朝といって良い時間帯だろう。平和島が折原の寝室へ侵入したことは、扉が開くほんの些細な音で気付いていた。忍ばせてはいても、敏感になった空気にその振動は確実に伝わる。しかしこの、彼の行動は別段取り立てるようなものではない。彼は頻繁に折原のベッドルームへやってきた。決まって折原が寝室に消えてから、寝入ったのを見計らうようにして。なんとなく壁の向こうで息を殺してじっとこちらの様子を伺う平和島が愉快で、いつも寝たフリをしてやっていた。最初こそ、いったい何をしでかしてくれるのだろうと期待したが、いつも彼はベッドサイドに立ったかと思うとしばらくの間ピクリとも動かない。いい加減折原のほうが痺れを切らしそうになった頃ようやっと持ち上がった手は、頭の頭上を滑ってすぐに引っ込んだ。きっと頭を撫でようとしたけれど出来なかった。目を閉じていても分かるような葛藤が、彼の中で起こっている。なぜだろう、今にも噴き出してしまいそうなほど愉快だった。それに反するように、平和島は折原の鼓動を聞き取ろうというのか、ただただ沈黙を守る。もしも彼が、彼のしたいことを折原に出来たなら、目を覚ましてやっても良いと心のどこかで思っていた。髪に触ろうとするボディーランゲージの意味。人間のフリをする化け物に、世界共通の感情論はどの程度通用するだろうか。

 平和島を自宅へ連れ帰ったその日の晩、彼は自分は同性愛者だったんだろうかと終末が訪れたといわんばかりの顔をして、折原へ疑問を投げかけた。もしこの相談相手がまだ思春期真っ只中の青少年だったなら、きっと折原はにっこりと微笑んでその原因やら過程やら、これからの本人の意思をゆっくりと聞き出しながらその花の蜜のような悩み事を共に楽しんだだろう。
 けれど相手はどうみたって可愛いげのない大の大人だ。しかもあの平和島シズオである。致し方ないだろう、折原は当事者を置いてけぼりにして心行くまで笑い転げた。そうして笑い疲れると今度は「実は、君を混乱させるかと思って黙っていたんだけど、ね?」としたり顔で宣う。さすがにからかわれていることを察した平和島は不貞腐れた様子で弁明するようにその理由をぼそぼそと話し始めた。

 「あんたを見てると変な気分になる」
 「…性的に興奮する?まぁ、実際そうなら、そうなんじゃない?」
 「こう、胸が熱いし、すげぇ痛い、とにかく変なんだ…!どうにか成りそうになる」
 「ふーん?別に今の静ちゃんが同性愛者だとかいう情報はなんのからかいにもならないから知っててもしょうがないけど、でもその相手を俺に特定するのは頂けないなー」
 「…ああ、気分悪いよな、悪ぃ…」

 「んー。ていうか、そもそも君が好意だと思ってるもの事態が怪しいんだよね。シンラから聞いたかもしれないけど、俺と君は、もともと犬猿の仲でね、顔を見るたびに喧嘩してたんだ。もうそれこそ条件反射になるくらい。君は人より感覚が鋭いみたいだし、よりいっそうアドレナリンが出ちゃうんじゃない?だから、そんな思いつめなくて大丈夫だと思うよ。てゆーかむしろそれ、前は俺に向かってそれなりに発散してたから良いけど、今の君はワケも無く怒れない状態だし、精神衛生上よろしくないかもしれない。ほら、切れる子供って感情をために溜め込んである日突然、爆発するっていうだろ?…今度シンラに相談してみるといい」
 「…ああ」

 平和島はただひたすらに困惑しているといった顔をしていた。自分の感情を他人に尤もらしい理論で否定されたのだから無理もない。折原は、縋るような視線に晒された奇妙な気まずさで、話題をどうにか逸らしながら表裏一体とはこのことかと、考えて結局は他人事としか受け入れられない余裕ありきな態度を自嘲した。

 「まぁ、人に好かれるとか、悪い気はしないよ。嫌われるよりずっと良い」

 こうやって手を差し伸べてしまうのが折原がたちが悪いといわれる所以だ。期待する反応が見たい。ソレよりももっと、拒絶されたときの顔が見たい。何より、相手が平和島だ。こうやって手懐けてしまえば良い。拒絶をほのめかして、抱き寄せる。そんな風にして、彼の一番弱いところへ突き付けた偽りを好意と勘違いさせる。なにしろ会話が可能なのだ。彼は、呆気なく折原の手中に落ちるだろう。ふと平和島に拒絶されないことが前提なら、許容されているのは自分で無いかと思った。そう思うこと自体、不思議な感覚だった。

 いつまでそうしているつもりなのか、視線が突き刺さるというよりは祝福でもするかのように温かく見守られている。
 ぬくぬくと毛布に埋もれながら、彼について知ったことを一つずつ思い出していた。
 平和島シズオの好物は唐揚げとハンバーグとクリームシチュー、そして主食に匹敵するほど甘味を好む。好きな場所は河川敷。好きなテレビ番組は格闘技関連。好きな天気は晴れ。好きな季節は夏。好きな色は青。あれ、これじゃあ好きなものばかりだと思い当たった途端、擽られたように堪らなくなってクスクスと笑ってしまった。はっと我に返り、咄嗟に目を開ける。しかし視線の先には驚いてうろたえる平和島の姿はなかった。ただ窓から射し込む光だけが床の上に静かに広がっている。いつの間に眠っていたのか、日はもう高い。どこからどこまでが夢だったのだろう、カーテンを引きながら思う。目がくらむような暖かな光のせいで、不意に、また胸がくすぐられた。ああ、今日はシズちゃんの好きな天気だ。漠然と思っていた。

 ずっとお互いがお互いのことを知らなかった時、知ろうともしなかった時、折原も唯一つだけ彼に関して知っていたことがある。

 「シズちゃんって、俺のこと大嫌いだったんだよ」
 「何度も聞いた」

 平和島は呆れたような顔をして、折原の前に珈琲を置く。それをそっと両手で持ち上げて液体を口に含んだ。その瞬間、気付いた。
 彼は死んだのだ。
 
 「イザヤ…?」
 「……」

 だからこんなにも胸がざわつく。だから、こんなにも拙い記憶が愛しい。

 「…泣いてるのか?」
 「ねぇ、シズちゃん」
 「ん?」
 「このままで居てよ。ずっとこのまま、何も思い出さないでくれ」
 「…ああ、そうだな」

 その声があまりにも優しくて、本当に泣いてしまいそうだと、折原は珈琲に写る自分をじっと眺めていた。



続く






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