―Who am I?―




 「平和島シズオは記憶喪失になったらしい」

 これはあくまでも噂だ。都市伝説程度にしか信憑性のない噂。所詮、それは単なる話題のうちの一つで、その中でも鼻で笑うくらいの価値に過ぎない。けれど彼らは、否定しながらも同時にそれが真実であると証明している。なぜなら都市伝説はすぐ目の前を通り過ぎていくほど身近なものだからだ。しかし誰も気付かない。きっと彼女が目の前にその正体を明かしたとしても、彼らには真実なんてものは見えやしない。それが噂の常である。
 今、セルティ・ストゥルルソンは仕事以外の理由でバイクに跨っていた。最近の彼女の日課の一つに、折原宅を訪ねるという項目が増えたのだ。それは他でもない友人のためであったが、何度も訪れているにも関わらず今でもあの家へ出向くのは気が引けた。折原自体が苦手であるのに加え、毎回期待を裏切られるというのは、わかってはいても辛いものがある。甲斐甲斐しく世話を焼くせいで恋人の反感を(平和島が)買ってしまうわけだし。しかし記憶をなくした平和島を折原が保護するという形が取られた以上、平和島の安否を確かめるには彼女自身が動くしかないのだ。ストゥルルソンは「不毛な役回りだ」と、インターフォンを押しながらため息を吐いた。

 『それで、何か思い出したことはないか』
 「ああ」
 『そうか、残念だ。これ、いつもの』

 ストゥルルソンを迎え入れた平和島は、いつも通り申し訳なさそうな顔をして薬の袋を受け取った。ちらりと彼の背後を伺ったが、折原の姿は見えない。

 『何か、不便は無いか?奴にひどい目に合わされていたりとかしてないか?』
 「いや?まぁ、退屈といえば退屈だけど」

 仕事とか、何か役に立てることがあったら良かったんだけどなと、苦笑いを浮かべる平和島に同情を禁じえずストゥルルソンは彼の肩にそっと手を置く。平和島は気を使わせてしまったことにうろたえながら、ありがとうと言ったが、言い終わらないうちに「上がってくかい?」と背後から声が掛かった。振り返れば、折原が平和島の後方からこちらを覗き込んでいる。ストゥルルソンは、ばつが悪そうに『おかまいなく』と文字盤を差し出してから、急いで別れの挨拶を追記した。友人が助けを必要としていないことが分かればその場にいる必要は無いのだ。早々に退散するに限る。言葉の通りストゥルルソンは、そそくさとその場を後にし、「逃げなくてもいいのにねー」と笑う折原に、平和島はなんともいえないような顔をして「ああ」と返した。
 平和島はほんの数ヶ月前、ちょっとした事件に巻き込まれた。彼自身、それ自体は「よくあること」だったけれど今回はどうにも普段とは勝手が違い、力でどうにかなるものもならず現状すら掴めないまま記憶を失い、昼間に表を闊歩できない状況に置かれるという危機迫った事態に追い込まれてしまったのだ。事の次第として事件は、その諸悪の根源である折原イザヤが終息させ、その過程で彼自身が平和島を保護し無事池袋は平穏を取り戻した、これが今回の事件で得られた結果である。
 平和島を折原が匿うよう促したのは岸谷シンラだ。彼を治療した岸谷は、明確になる平和島の現状を前にして折原を自宅へ呼びつけた。

 「…というわけで、君が責任とるのが筋ってもんじゃない?」
 「あははは!記憶喪失!なんだそれ!はは!まさに規格外!斜め上!…良い!とても面白い!喜んで、引き取らせてもらうよ!あの駄犬、今度こそ手駒にしてやる…!」
 「まぁ、好きにしなよ。僕には関係ない」

 それを聞いたストゥルルソンは岸谷を人でなし呼ばわりした(他意はない)が、彼には彼でちょっとした思惑があり、折原もなんとはなしにそれに感付いていた。おそらく岸谷は迷惑を被った事に少なからず腹を立てていて、自分に何かしらの報いを受けるよう仕向けている、と。これはあくまでも折原の直感だったが、彼とも長い付き合いだ、岸谷からのささやかなる報復の仕方は身をもって知っている。
 そして今、折原がひしひしと感じるのは平和島の存在感だった。記憶が戻るまでうちで預かることになったと、皮肉を込めて笑う折原に彼は「すみません、よろしくお願いします」と頭を下げた。なるほど、彼から怒りを取り除くと極端に人間らしくなる。良い種から悪い実が出来るのは、土が悪いせいだとまざまざと見せ付けられた気分だ。折原は腹を抱えて笑いたいのを堪えながら、彼を自分のパーソナルスペースに招きいれた。
 折原から見て怒らない平和島は、別人としか思えなかった。当然といえば当然といえる。そもそも折原と平和島は喧嘩なしでの接触は無かったというに等しい。それを考えれば、今ソファーに深く腰掛けてテレビを見ている平和島はもう平和島では無いとしても問題ないはずだ。これは折原にとって実に愉快な状況だった。ペットでも飼って気分だ、と思った。愛玩動物というよりは鑑賞用だが、そもそも人間のしぐさ一つ取ってみても、折原には興味深い。ふいに平和島は唇を指で触り始めた。そわそわと落ち着かない様子で、けれどじっとテレビ画面を見つめている。どうやら観察していたことに気付かれてしまったようだ。
 折原は含み笑いで「別にとって食いやしないよ」と言いながら平和島の頭をぽんぽんと撫でた。ストゥルルソンに散々脅かされたせいで、警戒しているのだろう。「何かされたら言え」なんて何かあってからでは困るだろうにと、相手の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜながら苦笑した。

 「おい」
 「…え?」
 「お前、その、そういうの、止めろ」
 「ん?」
 「なんか、ガキみたいだろ」

 ぱっと掌を髪から離す。骨ばった指から名残惜しげに、サラサラと髪が滑っていった。

 「ああ、ごめん、ごめん。確かに成人男性の頭を安易に撫でるっていうのは変なことだね。ちょっと君のこの痛んだ髪を見てたら見た目どおりの髪質かどうか確かめたくなっただけだから変に気を回さないで」
 「は?」
 「なんていうか、うーん、例えばでっかい犬が目の前に愛想よく座ってるとする。その犬はとっても大人しくて、柔らかそうな毛並みなんだ。…そしてなんだかこちらを気にしてソワソワしている。触ってみたくなるだろ?そんな感じだよ」

 不意に平和島は視線を逸らす。疚しさの表れだと、簡単に読み取れてしまうくらい粗雑な逸らし方だ。

 「…言いえて妙だな」
 「君をペットだって言ってるわけじゃないよ、プライドを傷つけたなら謝るけど」
 「いや、別に。なんか見ず知らずの他人に養われてるのが気になるだけだ」
 「ああ、そーだねー。せめて俺が女の子だったら良かったんだけど…」
 「それはもっと無いだろ。なんつか、女じゃなくて…あんたで、良かったとは思ってる」
 「…静ちゃんの口からそんな言葉が聴けるとは!本当、人生って何が起こるかわからないよね!」
 「よくそんな奴、匿えるな」
 「うん?だって今の君は、理屈も通りも通用する。ちゃんと会話が成り立ってる。友達として十分だと思うよ」
 「…友達」
 「あはは!これこそ言いえて妙なんだけどな!静ちゃん記憶戻ってたら激怒必至だよ?俺たちが友達なんて!」
 「……」

 普通の人間のような平和島は、思いもよらない繊細さを見せる。なので、折原は彼に対して言葉を選ぶという作業をするようになった。自分の言葉に傷ついてみせる彼の表情は嫌いではなかったが、一歩後ろに引き下がって身構えられるのは不本意だ。

 「嫌だって言ってるわけじゃない。君が何か責任を感じたりする必要は無いと、言いたいんだ。分かった?」
 「ああ」

 平和島が心底安心したという表情をすれば、この喜劇は続ていく。それに応えるように折原は微笑んだ。
 腹の底から笑い転げたいのを必死に堪えながら。


続く



prev next




人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -