―幸福の匂い―
ミルクティーの匂いは幸福の匂いだ。
ミルクパンから注がれたそれは一度沸騰させたせいで、もったりとしている。ほんの少しのスパイスとバニラエッセンスの匂いにうっとりとしているうちに、あたりは静かに柔らかな温もりで溢れた。きっとこのミルクティーから昇る湯気が空気にまぎれていくせいだろう。優しくて、穏やかな何かがマイルの小さな鼻から入って肺に取り込まれていく。
イザヤが作るミルクティーは、それは、それは甘ったるくてため息が出るほど良い香りがした。
「好き」
「…知ってる」
「イザ兄のミルクティーが」
「知ってる」
イザヤはそれ以上は何も言わず、タオル地のハンカチとマグカップの一つをマイルに持たせた。双子が気に入りのマグカップは、とてもそこが深くたっぷり入るという部分が売りだったが、沢山入る分余計に熱をもつので飲み終わるまでに指を火傷しないようタオル地のハンカチでくるむ必要があるのだ。
マイルは誘われるように、なみなみと注がれているそれにほんの少し唇を寄せ、啜ってみせた。予想通り「あち」と舌を出す彼女に、イザヤはしょうがないという顔で返しそっと頭を撫でる。左手でもう一つのマグカップを支えれば、たぷんと表面が揺らめいた。ほんの少しの揺れにも敏感に震える水面を、零さないように細心の注意をしながら、階段を上がるのは少し骨が折れる。部屋のドアはマイルが気を利かせて開けたが、彼女自身は部屋には入ってこなかった。彼女は自分の役割をよく心得ているのだ。
「クルリ、ミルクティー」
「……」
「飲めよ」
「……」
「朝から何も食べてないだろ、体に悪い、何でもいいから体内に入れろ」
「…了(うん)」
もそもそとベッドから顔を覗かせたクルリは、ひどい顔をしていた。散々泣いたようだ。目がはれてしまっているし、顔も浮腫んでいる。髪もボサボサでよりいっそうみすぼらしい。けれど、その姿が今は何よりも愛おしい。
「ひどい有様だな、まるでくだらない恋愛小説を読むようだ。何事も差し置いて恋にしか重点を置けないくだらない恋愛依存症の主人公も、よくそうやって泣きはらしてる。あんなもの、交尾のための脳内麻薬以外の何ものでもないってのに」
イザヤはクルリが失恋したと聞いてほっと息をついていた。相手がどうとか、倫理がどうとかではなくただ、まだ側に置いておきたいという理由から妹の失恋に安堵した。けれど悲しいことに、この感情の起伏は彼女を著しく成長させてしまうのだ。成長が導くのは美しさと自立である。だから、こうやって彼女を真摯に見つめていた。せめて、という思いで見守ろうというのだ。失っていくのなら、その過程に立ち会いたい。
「煩(うるさい)」
「ばかだね」
「…嫌(イザ兄、きらい)」
「解ってたんだろ?『適わぬ恋』だって。何を今更、傷つくことがあるんだ」
「嫌嫌嫌(嫌い、嫌い、嫌い)」
「本当にくだらない。惨めな思いをするのだって承知だっただろ?愚かだね。勝手に傷ついて、勝手に相手を恨んで、勝手に疲れ果てる。生産性があるとはとても思えない」
「煩!(だまって!)」
いったいどこからこんなにも水分は溢れるのか。ここで泣いたらまた、馬鹿にされるのだとわかっていても悔しさで涙が湧き上がった。せめて対等に視線を合わせるために両目をきつく擦ると、またひりひりと瞼が痛む。しかし今、クルリにはそれを庇う余裕すらないのだ。
恋をしていた。とても適うはずが無い人だった。だから、これは初めから予想していた結果。恋をしたその瞬間、終わりを知る、そんな恋だった。それでも好きだった、大好きだった、何もかもを全て差し出せるくらいに、大切な恋だった。辛くて、悲しくて、何度も泣いてそれでも手放せなかった想い。その感情すら愛おしいと思えるほどだった。
だからクルリが今、涙にくれる理由はその大切な感情を捨てなければならないという儀式なのだ。こうやって全てを思い出に変えるための。勿論、イザヤもそれを承知しているはずだ。だから馬鹿にされるのだ、とクルリは思っていた。悲劇を演じなければ、自己を保てないどこまでも若い思考を、咎められていると。そして彼女自身後ろめたさで、涙を隠しきれない。情けないと、自分を責めれば責めるほど込上げてしまう。
不意に、両手をイザヤに掴まれた。驚いてはたと相手を見れば、イザヤは切なそうに微笑む。
「でも、それでも、少なくとも、お前の抱いたその感情は尊いものだと、俺は思うよ」
「……」
「だってお前は正しい恋をしたんだ。人間らしく、くだらないことで悩んで無駄な意思疎通を繰り返して…、りっぱなもんだ。俺には到底出来そうもない」
「…離、馬鹿、大嫌(…離して、イザ兄の馬鹿、大嫌い)」
「全く、仕様がない奴だな」
そう言って離れた両手を今度はそっと差し出されたが、気まずさでクルリがしり込みしているのを見越したのかイザヤの両腕が彼女の背中に伸びた。いつの間にこんなに大きくなっちゃったのかなと、優しく背を撫でる彼の呟きが示すのはおそらく身体的なものではない。クルリはそっと、温かくて溺れてしまいそうだと思った。
テーブルの端の置かれたミルクティーから甘い匂いがする。
きっとマイルも同じ気持ちで、それを廊下で舐めているのだろう。そのとろけるように甘い匂いの中に、兄の精一杯の優しさが詰め込まれていることを知っているから、ミルクティーの匂いはいつだってクルリとマイルの幸福の匂いなのだ。
「…謝(ごめんなさい)」
「いいよ」
「好(イザ兄、好き)」
「…知ってる」
ほんの少し、イザヤからミルクティーの甘い匂いがした。
終わり