―名月―


 もしも月を手に入れてしまったら。
 その子供の気持ちを、いったい誰が酌んでくれるというのか。きっとその子は同じようにして泣いている。与えられたものの大きさに尻込みして、欲しいものだけが手に入らないことを知って、ただ呼吸も出来ないほどしゃくり上げながらそれでも手を伸ばすのだ。
 例えば、それが折原イザヤの場合。

 「遅れるなら連絡くらい欲しいんだけど」

 高層ビルと住宅街に埋もれる様に、どうにか辛うじて存在を許された小さな公園のベンチで、岸谷シンラは本を読んでいた。いつの間に灯ったのやら、街灯がチラチラと影をさして紙面をぼやけさせる。冷えた指で捲りあげたせいだろうか、薄すぎる紙は指先に何の感触も齎さなかった。

 「君は、犬か何かか」
 「まぁ、それがセルティに言われたなら肯定しなくはないなぁ」
 「今何時だと思ってんだよ、犬畜生だってもっと賢いだろ。なんなの?寒さで頭がいかれた?君はもっと効率の良い生き方してただろ。いつからこんな馬鹿に成り下がったんだ」

 昨晩、岸谷の携帯電話へ折原から細やかな「お誘い」が舞い込んだ。「酒でも飲まないか」まるで暗号のように多くを語るそれは彼の精神的な疲労を示している。断る理由はなかった。だからここで待っていた。待ち合わせの時間が過ぎても、彼の望むように、ずっと、惜しみ無い慈しみを持って待っていた。しかし折原がそれを素直に受けとることが出来るようになるにはまだまだ時間がかかるのも確かなことだった。折原は無償と呼ばれるものを極端に怖がる。 だからこそ顔を歪めて岸谷の正面に立った折原は、侮蔑と嘲笑を込めるようにして辛らつな台詞を吐き捨てた。だがしかしてそれを言葉通り聞いて傷つく人間は、今、この場にはいない。傷つけることが目的で発せられる声を、岸谷は言葉とは認めなからだ。これは折原の数少ない武器の一つ。普段なら殺傷能力さえある暴力的なそれは、唯一岸谷には通用しない。通用するはずも無い。彼の感情など岸谷には手に取るように分かるのだ。折原の顔には台詞が本心からのものでないことが如実に表れている。彼は、極端に感情を堪える為、奥歯をかみ締めるのを止めて声を発する一瞬、まるで今にも泣きだしそうな表情をした。これはもう癖になっていて、到底本人が気付けるとは思え無い。
 ふふ、と岸谷は笑った。その柔らかな笑みは、張り詰めた空気を一変して堕落させる。ようやっと息ができるといった具合に、折原はため息を吐いた。

 「知ってるだろ?僕は器用貧乏なんだ。でなきゃ君と友達なんてやってられない」
 「…あーあ。こんなはずじゃなかったのに」

 折原が、先ほどまでまくし立てていたとは思えないほど穏やかに呟いた嘘を、嘘だと岸谷は知っている。そして折原もばれていると分かっていて口にしていた。一度でも本音を零して、それが「もしも」手に入ってしまったら、絶望するのは両人だと理解せざるをえないのが彼らの関係だ。分かっている。けれど。それでも手を伸ばしてしまう。本当に届かないかどうかを何度も、何度も確かめてしまう。凍えた指先を暖めてやる口実すら見当たらないというのに。折原はじっと岸谷の赤くなった指先だけを見ていた。

 「馬鹿は君だよ、イザヤ」

 そっと岸谷の指が掴んだのは、折原の掌だった。気付けば、自分の指先も真っ赤になっている。こんなはずじゃなかったと、今度は心の中で呟いた。冷たい指をどんなに必死で絡めたところで、温まることが無いことくらい重々承知しているというのに。悔しさは拭いきれず、折原はしゃがみ込んで岸谷の指に息を吐き掛けた。勿論、それはほんの少し熱を与えてはすぐに消えていく。
 折原から吐き出されたにしてはあまりに白いな、と岸谷は思った。

 「温い」

 白い息が吐きかかる前に、岸谷は自分の唇をあてがってそれを吸い込んだ。唾液で濡れたせいで唇まで冷たくなっていく。いっそ凍り付けばいいと、ちょっとした空想を頭の端に置きながら、ゆっくりと目を開けた。ああ、月は明るすぎる。まざまざと映し出された折原は、ただ恐々と岸谷を見返すばかりだ。

 「…え?」
 「温すぎるんだよ、まったく。人を試すにしたって、君がここへ出向いてどうするのさ。証明して欲しなら最後まで徹底的にやりなよ。出来ないなら初めからするなバカ」

 言うだけ言って笑いながらゆっくりと立ち上がった岸谷は小さく伸びをして、さぁ行こうと街灯のしたから暗闇へ折原を促す。差し出された掌に一瞬戸惑ったが、結局折原は縋るように彼の手を取った。

 「…お腹減ったね」
 「こんな時間じゃまともな店は開いてないな」
 「君が作ればいい」
 「はは、何が出来ても文句言うなよ?」

 ぽかり浮かんだ月は、実際にはパチンコ玉程度にしか見えていないらしい。けれどそれはとても明るく二人の瞳の中に宿った。

 「やぁイザヤ、見てごらん、月が綺麗だ」
 「…、ああ」
 「今夜は月見酒といこうよ」
 「高層マンションのベランダで?」
 「あはは、趣がある」
 「確かに、俺らにはお似合いだ」

 月光から隠れるようにして歩く二人の掌は、一人でいたときよりもずっと温かい。それで十分なんだろう、と岸谷は泣き出したいような気持ちで月から目をそらした。


終わり




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