―小さな親切、大きなお世話―
サラサラと雨が降っている。
矢霧ナミエはふとパソコンのキーボードの手を止めて、窓を見やる。いつの間にこんなにも振り出していたのだろうか。彼女の上司が「ちょっとした用事」で出かけたころにはまだ雲行きが怪しい程度だった。さて、と考える。有能な秘書とはどこまで仕事をするべきか。あの上司のことだ、きっと濡れて帰ってくる。別段、彼は雨に濡れるのが好きという情報はない(雨に濡れる自分は好きなタイプかもしれないが)となれば、タクシーの一つも拾って帰ってきそうなものだが、いかんせん変わり者である。ことの次第、とくに自然現象関連には滅多に逆らうことなく、されるがままになって帰ってくるのが折原イザヤなのだ。
面倒くさいと、呟いた。
何が面倒かといえば、おそらく自分の行動に折原が大層喜ぶと分かっていてその面倒を見てやってしまう自分自身だろう。ほうって置けばいい、そんな仕事は言い付かっていない。けれど自然と湯船に湯を張って保温している。ぼんやりと珈琲を入れていれば、インターフォンが折原の帰宅を期待を裏切らない速さであっさりと知らせた。桁外れな予定外の訪れと共に。
「…どちら様ですか…」
矢霧は今世紀最大の怪奇現象を垣間見たかのような、なんとも表現しづらい表情して、受話器に話しかけた。
「客じゃないんで、とりあえずこれ…ここ置いてくんで、救急車呼ばれねぇうちに持ち上げてください」
「……」
「じゃあ、俺はこれで…」
「まって」
インターフォンのモニターには、平和島シズオと「これ」と呼ばれた上司(一部)が写っている。面倒くさいという文字がまたでかでかと浮かんだのは確かだが、面白い組み合わせであるのは確かだ。さらに言えば、おそらく立ち上がることの出来なくなっているであろう成人男性をエレベータに乗せて部屋まで連れ帰るだけの労力もやる気も持ち合わせてはいない。物は試しで、女手では持ち上げられないので部屋まで運んでもらえないかと持ちかければ、平和島はあっさりとそれを了承した。
のそのそと大荷物を抱えてやってきた彼は、安易にそれをソファーへ投げ、さっさと引き上げるかと思えば何か言いた気に矢霧を伺っている。何か?と問えば、気まずそうに「あんた、こいつの…」と言葉を濁した。
「そうだよ、だから話しかけんな」
矢霧がその腹立たしい誤解を否定する前に、先ほどまでぐったりと死体のようにソファーにうずもれていた折原が力なく平和島を睨む。ああ、こんなところでやめて欲しいと、矢霧は彼らの戦闘を予測して身構えたが肝心の平和島はほんの少し顔を歪めただけで、すぐにその場を後にした。なるほど彼はどこまでも愚直、言ってしまえば分かり安すぎる。
「…変な誤解されてそうね」
「変な誤解?君は俺の秘書だろ」
平和島はけして矢霧が折原の秘書であることを尋ねたわけではないだろう。そして折原の言いかたは秘書に対してするものではなかった。しかしそれを否定してはまた「面倒くさいこと」になるのは目に見えている。この場はただ、何もなかったようなフリをするのが一番だ。
「…お湯、溜めてあるわ」
「気が利くなぁ、さすが浪江さん」
「いいから早く行きなさい」
いつになく機嫌よく微笑んだ折原は、ふらりと窓際に立ち、ガラス窓を覗きこんで止みはじめた雨を見送る。いつの間にか、雲の隙間から夕日が射していた。
「でもすり傷が痛くてお湯とか無理」
「だから溜めたのよ」
「浪江さんのドエス…!」
終わり