胸に鈍く広がる痛みが薄れて消える前に、僕は口の端を上げていた。それでこそ苗字だ。僕に、柔らかな、けれど拒絶の笑みを寄越した苗字に、言い様のない所有欲を掻き立てられる。簡単に手に入らないからこそ、欲しくなる。僕はこの子が欲しい、そう解って僕はふわりと立ち上ったコーヒーの薫りに、そのコーヒーを淹れる苗字を注視した。
細口のコーヒーポットから、細い透明な線を茶色の粉に落とす苗字のその手は細くて、容易く折れてしまいそうだ。手だけじゃなく身体も、長い首も小さな肩も棒みたいな脚も、全部線が細くて。僕がその気になれば、力で苗字の口を開かせる事は容易いのかもしれない。けれどきっとこの子は簡単に折れない。だから僕はこの子に興味を持ったんだ。そして苗字は僕の予想を上回るしなやかな強さを持っていた。
いいね、
濃さを調節するように、細かくゆっくりとポットを傾ける苗字を視界に収めながら、胸の内でそう思った。
「これ商店街にあるコーヒー屋さんのですか?」
「教えない」
応接室に戻ってコーヒーを一口のんだ苗字の問いに僕はそう応えた。僕のその応えに、苗字は首ごと僕を見遣った。大きな黒い瞳が伺う様に向けられる。その瞳を見返しながら、僕は口を開いた。
「君には教えてあげない」
「…そう、ですか」
言ってカップを口にした苗字を一瞥して僕もコーヒーを飲んだ。苦みのある液体が口の中に広がる。けれど後味はすっきりしていて、やっぱり苗字の淹れたコーヒーは口に合う、そう思った。
苗字はそれきり静かにカップを手にして口を閉ざした。諦めが早い、そう思ったのも束の間、僕は思わず笑みを零した。苗字が考え込む様に薫りを確かめて、それから一口飲んだり、カップの中味を見詰めていたから。黒い液体には答えなんか書いてないのに。
「知りたいんじゃないのかい?」
「だから訊いたんですけど…」
笑みを含んだ僕の声に、苗字は僕を見遣りながら言った。初めて見た、ちょっと拗ねたような顔に僕は益々笑みを零す。
「苗字は隠し事が多いから、だから僕もちゃんと戦おうと思ってね」
「たたかう?」
「そうだよ、君は守りが固そうだからね。ただ訊いたって口を割らないだろう?」
「…取引、事ですか」
「違うよ、駆け引きさ」
僕の言葉に苗字は僕と一度目を合わせてから、手の中のカップに視線を落とした。
「……私は別に、隠し事をしてるつもりはありません」
ゆっくりと呟く様にそう言った苗字は、僕がそれに応える前に続けた。
「ただ、必要がないと思ってるんです」
「―どういう意味だい?」
カップに視線を落としたままの苗字に問う。苗字は、そのまま、です。そう言って僕を静かに見返した。その瞳はやっぱり黒く澄んだ色をしていたけれど、何処か微かに揺らいで見えた。見れば瞳だけじゃない、その肩もずっと小さくて、それでも苗字は僕を真っ直ぐに見ながら言った。
「直ぐに、忘れる事ですから」
言って目を伏せる様にカップに移した苗字の横顔は、なんだか酷く寒そうに見えて、それが温度調節がされているこの応接室の所為じゃないのは解った。
110217
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