最後の一枚だった書類に目を通し終えて、僕はデスクチェアから立ち上がった。何気なく背後の窓に寄って外を見下ろすと、体育館から列を成して校舎へと向かう生徒の群れが目に入った。ゾロゾロと、目障りだな。集団でいる事でしか身を守る術のない草食動物。けれどその草食動物ひとりひとりの顔は一様に皆明るくて、拘束から自由になれる、そんな顔だった。今日並中は修業式、明日からは夏休みに入る。










「ごちそうさま」


「ごちそうさまでした」


修業式が終わって一学期最後のHRの後、苗字が応接室へ来た。応接室で苗字の弁当を食べるのも今日で五日になる。店一軒を営む人間から教わっているだけあって苗字の弁当は毎回満足出来るものだった。教わっているのが山本武の父親だと言うのは僕にとっては気に入らないけれど、そこは苗字の弁当の味に免じて許してあげてもいい。そう思える位だった。今日はハンバーグは入ってなかったけど、唐揚げがまあまあだったし、煮物も言うことがなかった。けれど卵焼きは相変わらず甘くて、それでも苗字に言わせれば砂糖は減らしてるらしい。







「苗字、明日からの夏期講習は出るの?」



飲み干した湯呑み茶碗を置いて、傍らで弁当をしまう苗字に訊ねる。明日から夏休みだけど、三年生には受験対策の為の夏期講習がある。今月いっぱいまでのその講習は希望者だけ受講するシステムで、教科も選択になっている。まあ苗字が講習に出ようが出まいが、弁当は持って来させるつもりだけど。
そんな僕に苗字はお茶を手にしながら「はい」と短く返事をした。





「じゃあ明日からも弁当持ってきて」


「…雲雀さんは、夏休みなのに学校に来るんですか?」


「関係ないよ、風紀の仕事があるからね」

「そうですか」


言ってこくりとお茶を飲んだ苗字は、空になっていた僕の茶碗も持って立ち上がった。





「何か淹れましょうか、雲雀さん」


「うん、コーヒーがいい」



解りました、そう返事をした苗字が食後にコーヒーか紅茶を淹れるのは今日で四回目。いつもは僕一人分を淹れて教室へ戻っていく。でも今日はもう授業もないからそのまま帰るんだろうけど。

始まりは応接室の隣の給湯室に茶碗を洗いに行った苗字が、そこに置いてあるコーヒーや紅茶を見て言い出したからだった。紅茶も良いけど苗字はコーヒーを淹れるのが上手い。1番最初に「濃いめが好きですか、軽いのが好きですか」と訊かれて、僕は濃い方がいいと応えた。それからは濃さを僕好みに合わせて淹れて寄越す。訊けば「ちょっと人に教わった事があって」と言葉を濁した苗字が面白くなくて、僕は未だに苗字のコーヒーに「美味しい」と言ってあげた事はない。

僕は苗字のその「ちょっと」を訊きたいのに、苗字はその先を言わない。苗字の弁当を食べるのも、コーヒーを飲むのも回数ばかり増えて、でも苗字と僕の間には何等変化がない。それに僕はイライラする。

あの子は隠し事が多過ぎる。自分が知りたいから余計にそう思う事なんて、僕は考えなかった。そもそもどうして僕が苗字の事をこんなに知りたがってるかもよく解らない。知りたいものは知りたい、言わないなら言わせるまでだ。僕はソファーから立ち上がり、苗字がいる給湯室へと足を向けた。調度湯呑み茶碗を拭き終えて棚へとしまっていた苗字が、不思議そうに僕に目を向けた。





「…あ、すみませんコーヒーまだなんです」


「違うよ、二人分貰おうと思ってね」


「二人分、ですか」


「うん、君の分だよ」


「?」


「今日は僕の仕事も一段落ついてるし、君の授業もないしね」


僕の言葉に何か言いたげにした苗字だったけれど、僕は構わず棚からもう一つカップを出した。それを僕用にと湯が張られ温められていたカップの隣に置く。




「じゃあ、ご馳走になります」


「うん」


二つ並んだカップに苗字は言って、空のカップにお湯を注いだ。それからペーパーフィルターを一枚取り出して、側面の折しろを丁寧に、けれど慣れた手つきで折る。それをドリッパーにセットして、電磁コンロに掛けていたケトルを取ると、ペーパーフィルターを湿らせるように細い口から湯を回しながら落とした。迷いも無駄もない動き。初めて見る苗字のそんな姿に僕はただ見入っていた。コーヒーの粉が入った瓶を手にして、ぱかりと音を立てて開けた苗字が、不意に顔を上げ僕を見遣った。





「出来たら持って行きます」


「うん」


「…」


「何?」


「…応接室に戻ってても、」


それでも動かない僕に苗字が言いかける。それに「見たいから」と返す所でカチャリと小さくドアノブが回った。細い隙間が空いて、そこに見慣れた小さいフォルムが現れる。






「名前先輩!」


声と共に思い切り開いたドア。そこにいたのはあの一年の女子だった。




「良かった!まだいてくれて」


「―菫ちゃん、どうしたの?」


「帰っちゃったと思いましたよー」


僕の嫌いな木ノ下菫、また来たのかい、と思わず溜息が出る。耳聡くそれを拾った木ノ下は、僕がいた事にやっと気付いたみたいに、わあ!とドアへ後退った。





「雲雀先輩、居たんですか!あ、もしかしてお邪魔でした?」


「うん物凄く」


「すみません、直ぐに終わるんで」


全然すまなそうな顔をしてない木ノ下は、にやにや顔のまま苗字に向き直るとポケットから何かを取り出した。ピンクのケータイだった。





「名前先輩、アドレス教えてください!」
夏休みになると逢えなくなっちゃうし、




そう付け加えた木ノ下に、苗字は虚をつかれた様になって、それから「ごめんね」と言いにくそうに口を開いた。





「ごめんね、ケータイ持って来てないの。アドレスも覚えてなくて…」


「…そう、ですかぁ…」


「…ごめんね」


「いいんです、あ、名前先輩、夏期講習は出るんですか?私夏休みも部活あるから毎日学校にはくるんで、」


「うん、夏期講習には出るよ」


「じゃあ今度教えて下さいね!」


言って木ノ下は僕に向き直った。僕と目が合うと木ノ下は意味ありげに笑みを深めた。なんなのこの子。早く消えれば良いのに、思うと同時に木ノ下がドアノブに手を掛けた。





「では!失礼しました。名前先輩、雲雀先輩、さようなら!」



ぱたりと閉まったドアに溜息を一つ。ホントけたたましい、嵐みたいな子だ。内心そんな事を思いながら苗字を見遣る。苗字は閉じたドアを、その向こうに行ってしまった木ノ下菫を見送る様にドアを見ていた。何を想っているのか解らない横顔、でも何か言いたそうな、そんな顔だった。その目が、伏せられる。手元に落ちた視線、その先には粉の入ってないフィルターだった。きゅ、とその口唇が引き結ばれる。まるで無理矢理思考を切り替えた様に。






「コーヒー、今日も濃い目で良いですか?」


顔を上げずに訊いてきた苗字に、僕は眉を寄せる。何無理してるの、なんて訊かない。訊いても教えてくれないだろう苗字を、僕は視界におさめたまま口を開いた。






「嘘でしょ」



「…はい?」


「さっきの。ケータイ持って来てるんじゃないのかい?」




苗字が顔を上げる。僕は、この時、いつもの、苗字のあの困ったような、僕には良く見せる気後れしたような笑みを浮かべた苗字を頭の中に描いていた。けれど、そんな僕の予想に反して苗字は真っ直ぐな瞳で僕を見返した。






「本当ですよ」



ゆるりと口唇を上げて言った、久しぶりに見た、向けられたその笑顔に、僕は突然過ぎる痛みに襲われる。一歩近づこうとすると、一歩退く。踏み込もうとすれば弾かれる、そう苗字はこの柔らかそうな笑みで、絶対に縮まらない距離を敷く。誰に対しても、だった。それを僕は知っていたのに、今はそれが、酷く苦しい。

それきり苗字はコーヒーに目を落として僕を見ようとしなかった。

僕を、拒む様に。










110203





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