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「…何で“駄目”だなんて言ったんだろう…?」
一緒に過ごした約四週間…。
野獣は仁湖に、“屋敷の手伝いをすること”を駄目だと言う以外、仁湖の言動を制限するとこはなかった。
それなのに少しの間だけ帰郷すると言っただけで、あんなに切羽詰った顔をして、反論するとは仁湖は思っても居なかった。
確かに仁湖は身代わりとしてあの屋敷に居た。全く身分の違う野獣に意見することなど、恐れ多いことなのだが、野獣は以前仁湖に、「何でも言ってくれ」と言っていたのだ。
「…いい人だと思ってたのに、…酷いよ。」
父が病気だから一時の間だけ帰郷する、ということを野獣は最後まで聞き入れてくれなかった。
仁湖は無理矢理屋敷から飛び出してきたのだが、思い浮かぶのは野獣の悲しそうな顔…。
「…し、知らないよ、あんな人。…それよりも父さん、大丈夫だろうか…?」
思い浮かぶ野獣の切なそうな顔を頭の中から消して、仁湖は父の安否を祈り続けた…。
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「父さんっ!」
仁湖は家に着くなり父親を呼ぶと、すぐにベッドの上を見た。
…のだが、ベッドの上は誰一人横になって居らず、仁湖は首を傾げる。
「…あれ?」
もしかして病院に入院しているのだろうか?、と思ったのだが、入院するほどのお金が、我が家にないことは仁湖が一番知っている。
「…おう、仁湖帰ったのか?」
「兄ちゃん…、父さんは?」
背後から掛けられた兄の声を聞くと、仁湖はすぐさま父の無事を確かめる。
「もしかして入院?」
「あぁ、…それ嘘。」
「……は…?」
ニヤリと口角を上げて笑う兄の悪どい笑みと、聞こえてきた言葉に、仁湖は固まる。
「う、…そ?」
「あぁ、嘘。…本当に信じて、帰ってくるとはな。」
さすが騙されやすい仁湖、と笑いながら言う兄に、仁湖は沸々と怒りが募ってくるのを感じた。
「嘘って、何でそんな嘘を…っ!冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ?!」
「…悪かったって。それより仁湖、どうだった?屋敷の豪華な暮らしは?」
「話を逸らすなよ!」
「さぞ優雅な暮らしだったんだろうな…。」
嫌味のような兄の言い方に、仁湖は瞬時に兄の思惑に気が付いた。
父の身代わりだと言っても、贅沢な日々を過ごしていたことを兄は気付いているのだ。
そのことに兄は怒り、そして嫉妬している。
「…お、俺、帰る!」
いくら末っ子の自分が贅沢な暮らしをしているからといって、父が病気をしたと嘘を吐いていいわけがない。
こんな汚い性格をしている兄と一緒に居たくなかった仁湖は、「帰る!」と言って、家から飛び出そうとするのだが、
「駄目だ。」
兄は許してくれない。
「お前だけずるいだろ。…仁湖はこの家で、家事でもしてろ。」
「………っ」
まるで召使のように扱う兄に、仁湖はギリっと奥歯を噛み締めた。
それから何度か脱走を試みるのだが、兄に全て阻止されてしまった…
「…俺、あんな酷いことを言ってしまったまま、もう会えないのかな…?」
酷いことを言って、勝手に野獣の元から逃げ出してしまった。確かにあの時は野獣の言動を許せなかったのだが、冷静になった今考えてみると、自分にも落ち度はあったと仁湖は反省する。
「…会いたいな…」
頭を撫でてくれるときの優しい手付き…。
寝るときは後ろから優しく抱きしめてくれる…。
父や兄と違って、自分を人間として扱ってくれる。“家族”とは違った野獣の接し方に、仁湖は恥ずかしながらも、心地よいと感じていた。
「会いたい…」
仁湖はベッドに寝転んだままボソリと呟いた。
するとその瞬間、プルルル…と電話の音が鳴り響いた。
「…もしもし、」
そして仁湖は驚いた。何と電話主が屋敷に居たとき、優しく接してくれたメイドさんだったから…。
「ど、どうしたんですか?」
「…私は旦那様が仁湖様をどう思っているか知っています。…知っているからこそ、仁湖様には教えておかないといけないと思って…、」
「ど、…どうしたんですか?大丈夫ですか?」
電話口から聞こえるヒックヒックとしゃくり上げながら必死に喋るメイドさんに、仁湖は驚く。
…しかし、メイドの次の言葉に仁湖は更に驚くことになる。
「旦那様は、…もうすぐ、
この世から消えてしまいます…。」
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