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「あ、あのさ、…俺もここの屋敷のお手伝いするよ。」
「仁湖はそんなことしなくてもいい。」
「で、…でも…、」
「お前は、…俺の傍にずっと居てくれるだけで、…それだけで十分過ぎる。」
「…でも、俺何の役にも立たないし…、」
仁湖が父親の身代わりとして野獣の屋敷に来て、三週間が過ぎた。
仁湖は父親と二人暮らししていたときとは比べようもないくらい、豪華で贅沢な日々を過ごしている。食べ物も着る物も、何もかも不自由のない暮らし。
野獣は、“傍に居てくれれば、それだけでいい”と、仁湖に言うだけで、他に何も要求をしない。
しかしさすがにそれだけでは心苦しいのか、仁湖はいつも野獣に「屋敷の手伝いや、自分の出来ることなら何でもするから。」と、進んで申し出るのだが、野獣は決して仁湖には雑用をさせない。
「お、俺…こう見えても、料理は出来るんだ。…もし良かったらだけど、今度食べてくれないか?」
「仁湖が、…料理?」
「う、うん。…そりゃ、ここのお屋敷のご馳走とは比べたら失礼なくらい、粗末なものだけど、…もし良かったら今度食べてくれる?」
「そうだな。死ぬ前に、一度でいいから仁湖の手料理を食べてみたい。」
「死ぬ前って…。俺の料理でよければ、いつでも作るから。」
「………。」
俺に任せてくれ、と満面の笑みを浮かべて意気込む仁湖を見て、野獣は何とも言えない表情を浮かべていたことを、今の仁湖は気付くことが出来なかった…。
そして数日後、仁湖の元に一本の電話が掛かってきた。
発信源は、兄から……。
その電話の内容はこうだ。
“父が病気で寝込んでしまった。今すぐ帰ってきてくれ。”
兄からそんな電話を貰って、仁湖は血の気のない表情のまま、野獣に申し出る。
「少しの間でいいから、家に帰らせて…っ」
自分を身代わりにして逃げた男だとしても、父親なのだ。どんな病なのかは伝えられていないのだが、寝込んでしまっているほどだ。きっと重たい病気に掛かってしまったのだろうと仁湖は不安に陥る。
「…お願い、いいだろ?」
「………駄目だ。」
「な、何で…っ?!」
「…………。」
まさか駄目だという返事が返ってくるとは思っていなかったため、仁湖は大きな声を上げて、野獣に反論する。
「無事なのが、分かったら、…すぐ帰ってくるからっ。…お願い、少しだけ…、」
「…………。」
「いいだろ…?」
「……………。」
「…な、何か答えろよ…っ!」
急に黙り込んで何も言葉を発しなくなった野獣。
仁湖は自分が何かを申し出るのは身分違いだと分かっている。分かっているのだが、父親の安否が気になっているため、混乱しているのだ。
「仁湖、…行くな。」
「な、…何で?!す、すぐ帰ってくるから…、逃げないから…っ!」
「………仁湖…、」
今にも涙を零してしまいそうなほど、目元に涙を溜めて訴えてくる仁湖に、高瀬は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「……………。」
「何で、駄目なんだよ…?」
「…………。」
「答えてよ…。」
「………っ」
「…ば、か!…知らない、俺、…勝手に行くから…っ!」
仁湖はそう言うと、宣言通りに屋敷から飛び出していった。
赤い絨毯に染み込んでしまった、ポトリと一粒だけ流れ落ちた仁湖の涙を、シンッとした部屋で一人、野獣は見つめる。
「………仁湖…っ」
野獣は仁湖に言い出すことが出来なかった。言い出す勇気がなく、告げることが出来なくなってしまったから…。
仁湖は知らなかった。野獣が言い出す前に、家に帰ってしまったから…。
もうすぐ、野獣は死んでしまうことを…。
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