天槍のユニカ



軋む梯の上で(10)

 ユニカが返事を出来ずに青ざめていると、小さな丸いテーブルの下でするりとディルクの手が動いた。フィドルを弾くために手套を外していた彼の指先が、膝の上で重ねられていたユニカの手の甲を遠慮がちに撫でる。
 びっくりして息を呑む彼女の様子を見て満足げに微笑み、次は躊躇うことなくその手を重ねてきた。
「君が私の宮にいないというだけで不安だ。勿論これ以上君が危険な目に遭わないよう騎士を選んで警護に就けているが、正直なところ、彼らも私の手駒ではないからな。また同じようなことが起こらないとも言い切れない。私はまだ自由に西の宮へ出入りすることを陛下に許されてはいないから……勿論何かあればすぐに飛んでくるよ。けれど、私の住まいにいてくれた時のようにはいかない。……この間言ったことを覚えているか?」
 言いながら、ディルクは円形に設えられたベンチの上をすっと動き、さりげなくユニカの方へと距離を詰めた。重ねられた手を解こうと思ったが、距離が近づいた分、ユニカの手を押さえつけるように力が籠もる。
「この間?」
 聞き返すまでも無かった気がする。この間と言えば、東の宮を出てきたあの日のことだ。それ以来、ディルクとは接触していなかったのだから。
「……なんのことかしら」
「忘れた? それとも態とか?」
 なんのことを言っているのか、充分に想像出来る。彼はその瞳の色でユニカの視界を覆ったあと、何事かを囁いていた。きっとそれだ。
 けれどユニカには、本当に何と言っていたのか聞き取れなかった。聴覚が抜け落ちたように、いや、自分の心臓の音があまりに煩くて。
 黙っている内に、気づかないほどゆっくりと優しい所作で左手を拾い上げられていた。ユニカもテーブルに着いた時手袋を外した。その素肌に口づけられようとしていることがようやく分かり、彼女は勢いよくディルクの手を振り払う。
 目を丸くする彼から視線を外し、ユニカは必死で間を取り繕う材料を探した。目についたのは、ディルクが大事そうにケースに横たえたフィドルだ。
「あ、あの、さっきの曲、新年の催し物ではよく聴く曲だわ。殿下もどこかでご披露なさるの?」
 あからさまな話題の反らし方だったが、ディルクはふっと笑みを零しただけで気を悪くした様子は無い。
「いや、それもいいが、今から宮廷楽団に混ぜて貰っても迷惑だろう。言ったとおりあまりこれに構う時間も無い。細かい指遣いの練習がしたかっただけなんだ。ちょうど陽差しもあって春らしい天気だし。これでも子供の頃は、本気で公国の宮廷楽士になろうと思っていたんだよ。結局は騎士になるしか無かったんだが、戦術の教科書より楽譜の方が、剣よりフィドルの方が、弓なら矢を射る道具よりこちらの方が好きだったからね。楽器に興味が?」
「音楽のことはよく分からないけれど、フィドルの音色は好きよ」

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