天槍のユニカ



軋む梯の上で(8)

 ティアナが怪訝そうな顔をして振り返ってきたので、ユニカは再び歩き始めた。
 もう、あんなに恐ろしいことは起こらないのだろうか。仮にも与えられた王族という身分。その次に与えられるのは大貴族の養女という身分。
 気分がもやもやするのはそのせいだ。たとえ安全な地位が手に入ると言っても、それはあまりに大きな力で、ユニカに見合わなかった。
 公爵が利益無しにユニカを引き受けるはずもないが、彼女自身には自分の利用価値もよく分からない。本当に安全な地位と言えるのかも、少し怪しく思える時がある。
 そんな鬱いだ彼女の耳に、ふとフィドルの音色が届いた。陽気な速いテンポの曲が、軽やかに、冷たい空気を震わせながら耳朶をくすぐる。温室から聞こえてくるようだ。
 王太子が、既に温室に来ていると聞いたけれど……。ユニカはその音色につられるように温室へ入って行った。
 硝子の天井がふんだんに取り込んだ暖気で、中は春そのものだ。フィドルの音色がいっそう高くなる。小鳥の鳴き声を模したような曲調だった。音が温室中に木霊し、思わず近くの低木の枝に可愛らしい翼の姿を探してしまいそうだ。
 フィドルに聞き入りながら先導するティアナについて行くと、たどり着いたのは蔓薔薇の東屋だった。
 紅白の小さな薔薇の花が彩るアーチの下には、やはり王太子がいた。そして小鳥の声の正体も彼。
 陽光の下ですっと背筋を伸ばし、フィドルを構えた姿はこれ以上ないほど絵になっている。彼の右腕はなめらかに弓を操り、左手の指先は弾むように弦を叩いて、それに応えたフィドルからは小鳥の歌うような音色が流れ出す。
 軽やかな曲調に反して、彼は厳しい目つきで左手を睨みながら演奏していた。しかしユニカに気がつくと、その表情は途端に綻ぶ。思わずどきりとしてしまうほど嬉しそうに微笑みながらも、彼は演奏をやめない。
 ティアナに促されて東屋にあがり、ユニカはフィドルを弾き続けている王太子の向かいに座った。
 やがて小鳥の歌は終わり、低くゆったりとしたメロディへ。これはユニカにも聞き覚えがあった。春風を表現しているのだ。
 一月の新年を祝う行事でよく演奏されるあの曲だったのか、と思いながら、明るい余韻を残して弓をおろした王太子に、ユニカは遠慮がちに拍手を送った。
「ははは、ありがとう。シヴィロに来てから全然弾く時間がないんだ。すっかり指が動かなくなってきていてね……もう少し練習してからユニカに披露しようと思っていたんだが」
 フィドルを置いたディルクは、溜息混じりにそう言う。ユニカは少し目を瞠った。あんなに細かなメロディを自在に弾きこなしていたというのに。
「お上手でした」
「好きな曲があるなら弾いてあげるよ」
「……すっかりお元気になられたようでよかったわ」
「そうだな。おかげで寝ていた間に溜まった仕事が山のようにあることがようやく分かってきたよ。新年の準備もあるし。君の方も忙しいだろう」

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