天槍のユニカ



惑いの花の香(11)

 養父が朋友のヘルゲに刺された時、キルルが彼に飲ませたのはほんの一口ほど。また疫病に冒された瀕死のキルルが飲んだのも、ごくわずかな量。昨日王太子のために置いてきた量よりは、ずっと少ないはずだ。
 彼の怪我の程度だって、ナイフで急所を刺された養父より、今にも息絶えそうだったキルルより、比べればずっと軽い。二人とも、三、四日で意識を取り戻したのだから、ディルクがあの血をすべて飲んでいれば、既に床を上げていてもおかしくはないのに……。
 彼は血を飲まなかったのだろうか。確かにあの時、無理にユニカの血を差し出させようとはしなかったけれど。
 ふつ、と糸を切り、一度布を広げてみる。豊穣の象徴である葡萄には細かな陰影をつけ、図柄が細かい麦穂のリースにも挑戦してみたというのに、この調子では、明日にも仕上がってしまいそうだ。
 しかし今日のところは、これで一度作業をやめる。午後から引っ越しが始まるので、ベッドの周りや机の上など、細々と散らかっているものをまとめて片付けておかねばならない。裁縫道具もそのうちのひとつだ。
 昨晩、王の使いとして侍従長がやって来て、ユニカは西の宮へ戻ってもよいと告げられた。ようやくだな、とユニカは胸を撫で下ろす。
 東の宮には、一晩だけと言われて部屋を用意して貰ったはずなのに、気づけば十日以上も滞在している。ディルクが貸し与えてくれた侍女たちはしっかり世話をしてくれたので、思いの外居心地はよかったが、やはりここは人の気配が多すぎた。静かで、寂れた、庭園の奥の宮へ早く戻りたい。
 今度は王と王太子の厳選した近衛騎士が、数名ユニカの警護につくという話なのは不満だが、まだチーゼル卿の起こした騒ぎは収束を見ていないのだから、仕方がないのか。
 刺繍布を畳みながら、ユニカは片付けの指示を飛ばしているエリュゼをちらりと見やった。張り切った様子の彼女にせっつかれて、リータとフラレイがあたふたしながらドレスを長持ちに収めている。昨日着ていたドレスがどんなものかさえ覚えていないユニカは、いつの間にこれほどたくさんの衣裳が持ち込まれたのかと不思議に思った。
 ともあれ、侍女たちの作業も昼を過ぎれば終わりそうだ。やはりその前に、ディルクに挨拶はしておくべきだろう。
 血を飲んだのか、傷は癒えたのか、それも確かめたい。
 果たして忙しそうなエリュゼに同行を頼んでもよいものかな、とユニカが針をしまいながら考えていると、ドレスを運んでいたリータがあっと声を上げた。
「まぁ、殿下……」
「忙しそうだな」
「散らかしておりまして……もう、お怪我の方はよろしいのですか?」
「ゆっくり歩く分にはな。作業を続けなさい、構わなくていい」
「ようございました。では……」
 リータに続いてディルクの来訪に気づいたのはエリュゼだった。出迎えた彼女は簡単に挨拶を済ませると、本当にそれ以上構うことなく、手を止めていたリータとフラレイを叱りにいく。よほど引っ越しが楽しいらしい。

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