惑いの花の香(10)
「熱心に話を聞いては下さいましたが、こちらの質問に答えて下さるご様子はありませんでした。ただ、殿下にご用がある時はまた取り次ぎを頼むと仰っておいででしたわ」
「上出来だ。それだけユニカの警戒心を解すことが出来たのなら、俺から礼を言いに行っても悪い顔はされなさそうだな」
自分の異能を用いてまで、ディルクの傷を癒やそうとしてくれたことも加えて、随分大きな進歩だ。そして彼女の心が波立っている内こそ、入り込む余地がありそうだ。
(そろそろ仕掛けてみるか……)
大きく息をつき、ディルクは瞼をおろした。
「眠い……」
初めは強烈すぎると感じたが、鼻の奥に残る謎の香りは、徐々にディルクの意識を眠りの中に引き寄せ始める。これなら、止痛薬を足さなくても眠れそうだ。
「糸が取れなくならなきゃいいけどな」
ルウェルが冗談交じりに言ったその言葉に「うるさい」と返したような、その前に意識が途切れたような。
覚えていない内に、ディルクは夢を見ていた。
“彼ら”を亡くしてから、悪い夢ばかり。
けれどこの夜は違った。
一面に、薄青の花が咲き乱れる平原に立ち尽くしていた。ディルクの知らない場所だ。花の香りなのか――辺りにはユニカがまとうのと同じ匂いが充ち満ちている。
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あれから三日の間、ユニカは雑念を振り払うように無心で刺繍を縫い上げていった。新年に、教会堂へ奉納する刺繍布である。
まだ十二月の初頭。急いで仕上げねばならないほど、期限は差し迫っていない。今年はエリーアスも都にいるので、彼を王城へ呼び、刺繍布を預かって貰えば即日教会へ布を届けて貰える。
それなのに刺繍に没頭しなくてはならなかったのは、時間の問題ではなく、あの夜以来ディルクから音沙汰がなかったからだ。
ティアナに血を抜いて貰ったあと、ユニカはそれを残し、ディルクには黙って部屋を退散した。あの時はもう顔を見られたくなかったし、彼が血を飲むところだって見たくはなかった。
幾度も針を止めそうになりながらも、ユニカは黙々と葡萄の絵に紫紺色の糸を通していく。
自分の血にどれだけの力があるのか、具体的に説明できるほどユニカ自身が把握しているわけではなかった。ただ、確かに傷を治し、病を癒やすということしか分からない。どれくらいの量を飲めばいいのか、また多ければ早く癒えるのか、少なすぎては効果がないのか。どれも、試したことがあるわけじゃない。分かるのは、自分が見た限りのことだ。
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