天槍のユニカ



惑いの花の香(2)

 ただ、相手がユニカとはいえ、あの宝物を預けてしまう決心がつかなかっただけで。思い切って良かったと思う。彼女はこうしてティアナの思惑に引っかかってくれたようなのだから。
「“先生”っていうのは、なぜ? 父は都にいた頃、まだ学生だったと聞いているけれど」
「ご養父さまが我が家に滞在なさっていた頃、わたくしはまだ七つになったかどうかという子供でした。ご養生のために我が家にいらっしゃったというのも忘れて、わたくしはすっかりご養父さまに懐いてしまって、滞在中の三月の間、ほとんど毎日勉強を見ていただいておりましたの。その頃は医官になりたいと思っておりましたので、お優しかったご養父さまにすっかり甘えて……遠慮も知らずにお恥ずかしいことです」
「そんなこと、ないわ。……あなたにも、少し話を聞きたいと思っていたのよ。私、父と暮らしていた時間はこのお城にいる時間よりずっと短いの。都にいた頃の話もあまり聞いていなかったし……」
 彼女はそこでいったん言葉を切り、スパイスと蜂蜜入りのお茶をテーブルに置いたエミをちらりと窺った。話を聞かれるのは嫌なのかも知れない。この部屋にいるのが自分とティアナだけではないということを思い出したのか、ユニカはそれきり口を噤んでしまう。
 ティアナにとってもせっかくの機会だ。もし知ることが出来るのなら知りたかった。アヒムが都を去った後どんな風に暮らし、あの悪病が猛威を振るう中、どんな風に亡くなったのか。ユニカがそれを語ってくれるなら、同時にティアナは、ユニカの人となりを掴むことも出来る気がする。
 ティアナはそっとエミに耳打ちし、しばらくユニカと二人で話せるように退出して貰うことにした。
 ここ数日ユニカを世話してくれている侍女が出て行くと、彼女はほっと息を吐いた。ティアナが気を利かせてくれたのだということは分かったが、しかしこれで心置きなく彼女から養父の話を聞ける――というわけにもいかなかった。
 どういう距離感でもって話をすればいいのか分からない。彼女は王太子の侍女で、養父が世話になっていた貴族の娘で、また養父とは仲良く過ごしていた時期もあって……けれどユニカにとっては、今日まで個人的な会話をする相手ではなかったし、そもそも同じ年頃の娘とただ話すのなんて初めてだ。侍女を相手に用を申しつけるのと、普通に会話するのとではきっと勝手が違う。
 どうしようか、と思いながら、狼狽しているのを誤魔化すようにユニカは目の前にある甘い香りを立ち上らせるカップを揺すった。
「その、そこへ座ってはどう? 私はあなたの主人ではないし、他に咎める人間もいないわ」
「それでは……」
 ユニカが促すと、ティアナは素直に向かいの席に着いてくれた。彼女もユニカと話をするつもりでいてくれたらしいことに、ひとまずは安心する。
「ノートのことだけど、父があれを書いた頃……都にいた頃と言えばあなたもまだ小さかったでしょう? 随分難しい言葉も読めたのね」
「とんでもないことです。いくら子供向けに噛み砕いた解説をして下さったとは言っても、専門的で分からない言葉はたくさんありました。家庭教師に手伝って貰って、自分で更に注釈をつけて、全て理解するのに半年はかかりましたわ。そして今日までも、ずっとわたくしの勉学の支えです。要点だけがまとめてあるので、ちょっとした確認は、みんなあのノートで済ましてしまいます」

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