▼ 01
あの禊から数日、こふっちゃんの起こした時化も治まってきて漸くゆったりとした毎日を過ごしていた。
『よし…それじゃあ陽弥、行ってくるね』
「おう、気いつけろよー」
『はーい』
陽弥の心配するような声に返事して、私は歩き出した。
―――木が立ち並んでいるその隙間を縫うように歩いていく。奥まで入り込んだところで、微かに声が聞こえてきた。
あまりにも距離がありすぎるせいで内容は聞こえない。ぽつりとある二つの姿もちゃんと確認出来ず、仕方なく近寄ることにした。もともと片方には用事があったからね。
カサリ、と足音をさせると二人共同時にこちらを向いた。男女二人組で、男の方は初めて見る顔だ。女は驚いたように目を丸くすると、やがて口元に弧を描きコロコロと笑った。
「李卯じゃない、久しぶり」
『久しぶり…野良』
「…やだ、李卯までそんなので呼ぶの?陸巴はいいとして…夜トも名前で呼んでくれなかった」
ぶすりと拗ねる野良に思わず笑ってしまう。そう、変わってないのだ彼女は。"あの頃"から、ずっと。
「それにしても…今日は一人なの?あの神器は?」
『お留守番。ここに来ることも言ってないし』
「へえ…ひどい神様ね、あの子可哀相」
クスクスと笑うその姿も、変わってない。
ふ、と目尻を緩めた私は、瞬時にそれを引き締めて隣の男に視線を向けた。
『…で、それは誰?』
「おいおい…それって…オレは毘沙門様の神器だよ。あんたこそ誰だよ」
「陸巴、その子は神様だよ。四神を纏める神様」
「は、えっ、嘘だろ…!?こんな奴が!?」
陸巴と呼ばれた男はどうやら毘沙門の神器らしい。…でも、とてもそうには見えない。
『…あなた、臭い』
「は?」
「ふふふっ、やっぱり李卯には分かっちゃうね。そう、陸巴も妖を使うんだよ」
『はぁ……で、何企んでるの』
疲れからかため息を零しながら問いかけると、野良はくすりと目を細めた。
「 不 和 」
愉しげに紡がれたそれは、あまりにも残酷すぎて、
『不和…って、そんなこと…』
「簡単だよ?……ねえ陸巴、あたし見たのあの日……、兆麻はどこに行ってたと思う…?」
『っ野良!』
「兆麻はね……―――」
「―――ふーん…そいつはよくないね…」
そう言った陸巴の口元には、笑みが浮かんでいた。
『……どういうつもりなの、野良』
「また野良って呼ぶー…あたしね、夜トがくれた名前も好きだけど、」
―――李卯がくれた名前も好きなんだよ?
野良の言葉に、拳をギュッと握りしめる。そんな私の様子にそれはそれは愉しそうに笑う野良。
私が野良に名前をつけていることを知っている者はいない。あの陽弥も知らないのだ。だって、言えるわけがない。
人斬りを、やっているだなんて
「ふふ、可愛い。父様もね、李卯のこと心配してたよ?もうずっと顔見てないからって」
『……わたしは、もう…やめたいの』
「そんなの今更無理よ…大丈夫、あたしが上手に斬ってあげるから。陽弥って子よりも、ね」
ぎゅっと包むように抱きしめてきた野良の体温が私に移る。久しぶりのこの感覚に、つい彼女の袖を掴んでしまった。
「ほら、呼んで……?」
まるで誘惑するかのような声色は、私を惑わす。
『――――柚(ゆず)』
何年か振りに呼んだその名前に、野良――柚は嬉しそうに笑った。
名は柚(ゆず)
器は柚(ゆう)
それが、私がこの子につけた名前だった
くすり、クスリ
「行きましょ?李卯……父様も待ってるよ」
柚に手を引かれながら、私はこの樹林から離れた。
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