自転車競技部
入学式から数週間が経った。
あの電話の日から、雫は自分の愛車――FELTゼロで高校を通っていた。真っ黒なロードバイクは雫の手によって日々整備されており、朝日に照らされて本来以上の輝きを放っている。
しかし、学校生活はと言うと…。
「…はぁ……」
相変わらず東堂のいない毎日をただぼんやりと過ごしていた。
「おはよ、小野田君!」
「おはよう、雫ちゃん」
「ギリギリだねぇ。今日も落車しちゃったの?」
「えへへ…実は…」
「ほんとにもう…。ほら、絆創膏!膝から血が出てる」
「わっ、ありがとう!」
小野田とは良好な関係を築けているため、雫にとってはそれだけが救いだった。
「あ、小野田君アニ研入ったの?」
ぱっと思いついたそれを素直に尋ねると、小野田はぶんぶんと首を横に振った。え、と目を丸くする雫に、小野田は少し俯いて恥ずかしそうに口を開いた。
「アニ研は廃部してて…。自転車競技部に入ったんだ」
「へ………ええぇぇ!!?」
大きな声を出して驚く雫に、クラス中の視線が向く。その視線を一身に浴びた雫は気恥ずかしそうに顔を赤くして縮こまる。そんな雫に、教室はワッと笑いが湧いた。
少ししてから徐々に本来の静かさが戻ってきたところで、雫はつんつん、と小野田の背中をつついた。
「い、今の話…ほんと?」
「う、うん」
「小野田君そんなに自転車好きだったっけ?いや、確かにママチャリであの激坂登るのは凄いと思うけど…」
クライマーの素質があると思うし、その根性も凄いし、とぶつぶつ言う雫に、小野田はふっと数週間前の事を思い出す。
今泉と激坂で出逢ったこと
秋葉で鳴子と出逢ったこと
自転車競技部で先輩達に出逢ったこと
一年生レースで初めてロードバイクに乗ったこと
今泉よりも先に山岳リザルトを取ったこと
そのどれもが、小野田を自転車の世界へと誘い込む要因だったのだ。
「ね、ならさ、ロードバイク乗ってるの?」
「うん。寒咲さんの家が自転車屋さんで…借り物なんだ」
「何乗ってるの!?」
キラキラとした目で尋ねられれば、小野田も答えない訳にはいかない。
へにゃ、と嬉しそうに笑いながら小野田は口を開いた。
「クロモリロードレーサーに乗ってるんだ」
すると、雫は更に目を輝かせてずいっと小野田に迫った。
「クロモリかあ!へぇ…小野田君にはピッタリかも」
「知ってるの!?」
「知ってるよ!だって、」
――私も、自転車乗りだよ
ニッと口角を釣り上げて笑う雫に、小野田はぞくりと背筋が粟立った。たった一瞬のことだけれど、小野田は感じ取ったのだ。
雫は強い、と。
「ならまた勝負しよ!裏門の坂でもいいし、どこでもいいよ!」
「え?でも、確かに僕は坂が得意だけど雫ちゃんは…、」
「私も、」
小野田の言葉を遮って、雫はニヒルに笑う。そんな笑みを初めて見た小野田は、思わず魅入ってしまった。
「私も、クライマーだよ」
鈍く光る瞳は、まるで獲物を狩るそれととても似ていた。
放課後、何の部活にも入っていない雫は直帰で家に帰る。
「じゃあね、小野田君。部活頑張ってね!」
「うん!」
また明日、と言い合ってから雫は自分の愛車の元へと歩く。小野田は自転車競技部の部室へ。
もうすぐで自転車置き場に、というところで雫はある事をふと思い出した。
「…そう言えば…、」
――巻ちゃんって総北の自転車部だったような…
そこまで思い出した雫は、くるりと踵を返して走り出した。
向かうは、――総北自転車競技部。
「――い、な、い!」
せっかくここまで来たのに!巻ちゃんのバカ!
うがー!と巻島に対して理不尽に怒る雫。それもそうだ。何故なら、部室には誰もいなかったからだ。
「もー…、このドリンク全部飲んでやろうか!」
マネージャーである幹が用意したドリンクを見つけ、腹いせにそんな事を言う雫を止める人は誰もいない。
「走ってるって分かってるけどさあ…、私だって走りたいー!」
そう、最大に怒りたいポイントはそこなのだ。
ロードに乗って箱根に帰ろうとした雫は、巻島の存在を思い出してここまでまた引き返してきた。
つまり、お預けをくらった状態で今部室にいる、という事になる。
「くそう…、巻ちゃんのアーホ!タマ虫ー!蜘蛛男ー!」
思いつく限りの罵倒を口にしていく。
すると、ガチャリ、と部室の扉が音を立てて開いた。
prev / next