Time of Moment | ナノ


喧嘩は痛い

雫が総北の自転車競技部のマネージャーになってから、1日が経った。

しかし、雫は未だに東堂に報告出来ずにいた。



「うぅ〜…どうしよ…」

「雫ちゃん?どうしたの?」

「んー…、その、ね。ほら、箱学に知り合いがいるって言ったじゃん?」

「うん」

「その人にね、まだマネージャーする事になったって報告してないの」



どよ〜ん、と負のオーラを出しながら机に伏せる雫に、小野田はおろおろとしながら雫を慰める。

そんな小野田の可愛さに雫はつられて笑ってしまうが、事は深刻だ。



「絶対許してくれないだろうなあ…。でももう入っちゃったしなあ…」



遠い目をして窓の外を眺める雫。すると、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、小野田は雫を気にしながらも体を前に向けた。



「(…尽八、怒るだろうなあ…)」



喧嘩、するのかな

東堂の怒った姿を思い浮かべ、机の上に開いていたノートに顔を埋めた。

















「ラスト一周!」



放課後、部活が始まり、雫は左手にボードとペン、右手にストップウォッチを持って門の所に立っていた。

暫くすると金城、田所、巻島がトップで帰ってきた。その後ろに今泉、鳴子、そして数メートル離れた所に小野田がいた。どうやら小野田は坂でスピードを速めたみたいだ。



「お疲れ様です。タオルとドリンクです」

「あぁ、ありがとう」

「ありがとよ!」

「サンキューっショ」



その後も着々とゴールしてきて、同じようにタオルとドリンクを渡した。

そんなこんなで部活も終了し、日誌も書いた雫は荷物を纏めて幹と共に部室から出る。すると、隣の部屋ではまだ金城がローラーを漕いでいた。



「あれ…金城先輩は帰られないんですか?」

「あぁ。インターハイも近いからな。もう少し練習して帰る。ご苦労だったな」

「いえ…あっ、」



雫は慌てて引き返し、両手にドリンクとタオルを持ってまた出てきた。



「それなら…これ、置いておきますね!タオルもこまめに替えて下さいね」

「ありがとう。気をつけて帰れよ」

「はい!」



サングラス越しに目が合う。金城の柔らかい目に雫も心がぽかりと暖かくなるのを感じた。



「じゃあね、幹ちゃん!」

「うん!また明日ね!」



幹はバスで。雫はロードで帰宅する。だからいつもバス停で幹とは別れるのだ。



「(はぁ…流石に今日あたりで報告しておかないとまずいよねぇ…。尽八と電話したら口からぽろっと言っちゃいそうだったから、昨日も電話してないし…。既に怒ってそうだ)」



考えれば考えるほど憂鬱になる。東堂と電話するのがこんなに嫌だと思う日が来るとは想像もしてなかった。


ロードから降りて、電車に乗っている間も暗い顔をしたままの雫。どんどん家に近づいている事により一層暗くなる顔色。



「ただいまー」



家には誰もいない。どうやら二人とも今日は帰りが遅くなるらしい。リビングのテーブルの上に無造作に置かれた紙には、『遅くなります』と書かれてある。その後ろには父、母、と差出人の名前まで。



「…ごはん、どうしようかな」



二人とも遅くなるのは久々だ。故にご飯を作るのも久々。

何か作ろうか、と冷蔵庫をとりあえず開けてみるが、中はすっからかんだった。そういえば母はいつも火曜日と金曜日に食材を足していたな、と思い出し、悩みに悩んだ結果、コンビニに買いに行く事にした。



「お金は後で請求するとしてー。何食べよっかな!」



普段はなかなか食する事の出来ないコンビニ弁当は、雫にとってご馳走だ。おにぎりにするか、お弁当にするか、はたまたチルド弁当にするか、そのコーナーの前をうろうろする。



「あ、ペペロンチーノ食べよ!」



自身の大好物であるパスタを手に取り、ペットボトルのお茶と一緒にレジへ。パスタを温めてもらい、店員の明るい声に送られながら店を出た。


家に帰って自室に行き、パスタを食べながらテレビをつける。けれどその内容なんて頭に入ってなくて、考える事は東堂の事だけ。



「はぁ…パスタおいしい…」



ついつい現実逃避がしたくなるのも無理はない。これから雫は怒られるのが分かっていて電話をするのだから。誰も怒られるのが好きだなんて人はいないだろう。いたとしてもそれはただのマゾヒストだ。生憎雫はノーマル。



「……もう、部屋にいるかな」



時刻は21時を回った。だいたいこの時間にいつも電話をしている。

スマホの画面をタップしていき、東堂の登録画面を出す。後はボタンを一つタップするだけ。だがそれがなかなか出来ない。



「…女は度胸!」



ぎゅっと目をつぶって、雫は東堂に電話をかけた。

プルルr、


《何故昨日は電話に出なかったのだ、雫!!》



ワンコールもせずに出て、口頭から怒る東堂。せめてもしもしくらい言ってくれ。切実にそう思った雫だが、今ここでそれを言ってしまえば確実にこれから後がややこしくなるに違いない。

東堂に聞こえないように携帯を耳から離して小さく息を吐くと、未だキャンキャンと煩い東堂に対して口を開いた。



「尽八、ごめんね。昨日は忙しかったの!」

《む…ならば仕方がないな…》



大人しく引き下がってくれた東堂。だがしかし、これからが本当の勝負なのだ。手に汗がじわりと滲むが、それさえを気にせずに拳を握りしめ、気を引き締めてあのね、と東堂が話し出す前に話を切り出した。



「尽八に、言っておくことがあるの」

《ん?何だ?》

「…あの、あのね、…わたし、

総北の、…チャリ部の、……ま、マネー…ジャー、を、…することに、しました…っ!」



言った、言い切った。ものすごい途切れ途切れだけど。

気になる東堂の反応は、無し。あれ?と思い名前を呼んでみるが、ただ息遣いが聞こえるだけで怒鳴り声などは全くない。



「ね、ねぇ、じんぱ、」
《なっ、ならん!! それはならんぞ雫!!》



すると、まるで覚醒したかのように大声で否定し出した。あまりの不意打ちに、雫の耳がキンキンとする。しかしそんな事は御構い無し。東堂は先ほどまでの数秒間を取り戻すかのように怒鳴る。

反論する余地など、ないくらいに。



「待って尽八、話を聞い、」
《話は聞いた!だがオレは許さんぞ!何故自転車競技部なのだ!しかもそこが何処だか分かって言っているのか!? 箱学のライバル校なのだぞ!?》

「分かってる!分かってるから声のボリューム落として!また靖友君来ちゃうよ!」

《そ、そうだな…だが、やはりだめだ、雫。いくら何でも、それは…だめだ》


ああ、失敗した。声のボリュームを落とせだなんて言わなきゃよかった。

静かになった東堂の声に、雫は素直にそう思った。大きく怒鳴られるのならばまだいい。それの方が耐性がついているから。でも、静かな声でそう言われるのは幾分堪える。



《巻ちゃんか?巻ちゃんに誘われたのか?ならばオレが断っておいてやろう》

「誘ってくれたのは巻ちゃんだけじゃないよ。チャリ部の皆さんが、誘ってくれたの。あと、もう入部しちゃったから断るのはだめ」

《何故オレに相談しないのだ。何故勝手に決めた?》

「…こんなこと、相談できないよ。そもそも部活で忙しい尽八に私の部活の事まで相談してたら、尽八の練習時間削られるよ。それでもいいの?」

《構わん。それくらいでへこたれるような男ではない事は雫が一番知っているだろう?》



だめだ、勝てない。思えば昔から東堂と言い合いをして雫に軍配が上がった事は過去に一度もない。



「…私だって、自分の事は自分で決める。いちいち尽八に聞いてたら私、駄目な子になっちゃうよ」

《オレがいるのだからそんな心配は無用だ》

「…ッ、私だって!部活がしたかったの!チャリ部に入りたかったの!高校生になったら箱学に入学して!箱学のチャリ部に入って!インハイ優勝して!

そんな夢を持ってたけど、もう叶わないじゃん!だから、だからここのチャリ部に入ったの!」



言いたい事を半ば叫ぶように言い切った雫。しかし、それではいそうですかと終わらす東堂ではない。



《雫のその想いは知っていた!ならば部活になど入らずとも、学校が終わってすぐに箱学に来て練習を手伝ってくれる事だって出来たはずだ!分かっているのか?千葉総北はオレ達の敵だぞ!?》

「分かってるよ!」

《いや、分かっていない!つまり、雫はオレ達の、オレの応援が出来ないということなのだぞ!! 箱学を優勝に導くと何年も前から胸に抱いていた己の夢を捨てたと言うことだぞ!?》

「…っ……」



いたい、胸がいたい。

涙が、止まらない。



「すて、捨ててない…!も、もう叶わないから、だから総北で、インハイ優勝を、」
《“総北のインターハイ優勝”。それを本気で叶えると言うのならば、雫、それはもはやお前の掲げていた最初の夢ではない》



冷たい東堂の声、言葉。そのどれもが正論で、雫は言い返すことができなかった。


もう、尽八を応援できない。
当たり前だった箱学の応援が、できない。
尽八の練習を見ることもできない。
箱学のインハイ優勝を信じることもできない。


そのことが、こんなにも辛いだなんて。

尽八に言われてやっと分かったなんて。


――でも、それでも、



「そう、だよ」



もう、私は中学生でもなければ憧れていた箱根学園の生徒でもない。



「私は、千葉総北高校の自転車競技部マネージャーだよ」



涙を拭え。声の震えを止めろ。

尽八に、想いを届けるために。



「そのマネージャーが、自分の高校を応援しない訳がないでしょ?だから、

今年のインハイ優勝は、千葉総北。その手伝いを私がするんだから!」



もう私は、尽八とは違う場所にいるのだから。



《…許さん。そもそも、自転車競技部は男だらけの部活だ!何かあったらどうするのだ!!》

「何もない!それにあともう一人女の子のマネージャーいるし、大丈夫!」

《何故そんな楽観的なのだ!だめだ、今すぐやめろ!退部しろ!》

「いやだ!なんなの!尽八の分からず屋!」

《それはこっちの台詞だ!いいか雫、明日朝一で辞めるのだぞ!》

「ああもうしつこいなあ!辞めないったら辞めない!じゃあね!」



まだ何か言ってこようとした東堂を無視して通話を切った雫。ふぅ、と張り詰めていた息を吐きだしてぼふり、とベッドに倒れた。


その後もぶるぶると震える携帯に、電源を落としてお風呂に行く。お風呂から上がって携帯の電源を入れるとほんの5分前にかかってきていたが、そこからはなかった。



「…巻ちゃんにかけてるな、こりゃ」



今回は巻ちゃんにも犠牲になってもらおう。

初めての喧嘩に戸惑いを覚える雫だが、きっとそう長くないうちに向こうから謝りのメールが来るだろう。そう単純に考えて、部屋の電気を落としてベッドに潜り込んだのだった。








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