K | ナノ

その日の夜――

優衣は真上に浮かぶ三日月を見て目を細め、ギシリ、とベッドのスプリング音を立てながら立ち上がる。


もう消えない記憶に、優衣は静かに喜び、それと共に確かな悲しみを感じていた。



「…真白の想いは伝わったよ。……でもね、やっぱり…私はここから離れないといけないんだ。泡沫の王の存在は伝説のまま、終わらせないと…」



その存在自体が世界の為にならないのは、泡沫の王である優衣が誰よりも知っていた。

ヴァイスマンや國常路も知っているからこそ、何年も何も口出しせずに優衣を見守ってきたのだ。

國常路と最後に話したのは、優衣がクランズマンを持ったと聞いた時だ。誰よりも騒ぎ、誰よりも優衣の事を心配したのを、優衣は昨日の事のように覚えている。



「…行こう」



静かな部屋に籠る決意は、誰に知られる事もなく揺蕩っていた。













翌朝、草薙は優衣が眠っているであろう部屋をノックした。



「優衣ー、起きてるかー?入るでー?」



何の応答もない事にまだ眠っているのかと思ったが、優衣は周りの音には敏感だった事を思い出し、失礼だと分かっていながらもドアノブを捻った。

そろりと中を覗いてみると、ベッドはもぬけの殻。そこに誰かが居た形跡などなかった。



「……は…?ッ尊!!」



草薙はすぐ様周防の部屋へ。大きな物音を立てて入ってきた草薙に文句の一つでも言おうとしていた周防だが、その草薙の剣幕に目を鋭く細める。



「…何があった」

「優衣が…優衣がおらへんねん…!」



告げられた言葉は、周防を不機嫌にするものだった。すぐにベッドから降りて優衣が寝ていた部屋へと向かうが、やはりもぬけの殻。

少女の姿は、どこにもなかった。



「…ミコト、」

「……アンナ…」

「ユイ…いないの…?」



不安の色を隠せないアンナに、周防が口を開いた。



「…ぜってェ見つけるぞ」



周防の言葉に草薙はクッと口角を上げる。そしてだんだんと集まってきた吠舞羅の連中に話をしようと下へ降りて行った。

周防とアンナも続けて降りるが、その前にと周防が優衣の部屋へと入っていく。ベッドサイドにあるデスクの上には、何もない。次いでカタ、と引き出しを開けたら――ビンゴだ。



「それ…手紙?」

「あぁ…優衣が何も残さず消えるような馬鹿じゃねェからな。例え記憶が消えていようが、根本的なアイツの性格までは変わらねェ」



宛先は、吠舞羅。差出人は、優衣。ご丁寧にそこまで書かれた手紙を眺めていると、ちょうど草薙が十束と八田、鎌本を連れて戻ってきた。流石だ。全員連れてきていたらきっと周防が狭いと怒っていたに違いない。


すると、周防の持っている手紙に目敏く気が付いたのは十束だった。



「キング、それ…」

「アイツが残していった手紙だ」

「優衣の…!」



周防は手紙を十束に手渡し、受け取った十束が封を切った。便箋は3枚。普段手紙など書かないこのご時世、優衣の書く文字を見るのは皆初めての事だった。

震える声を押し殺すように、そっと十束が手紙を読み始めた。





吠舞羅の皆様へ

突然姿が無くて、ビックリした人もいるでしょう。ごめんなさい、みんなに感謝の気持ちを直接言わずに去ってしまって。

本当は、直接礼を言いたかった。記憶の無い私を助けてくれてありがとうとか、得体の知れない私を仲間だと言ってくれてありがとうとか。それでも、もう直接会う事は出来なかった。

泡沫の王の存在は、在るだけで世界の理が狂う。だから、力を使ったら記憶が無くなり、あたかも最初から存在しない伝説の…幻の王だと認知され続けてきた。それが、世界の王達のバランスだった。それは泡沫の王だけじゃない、泡沫のクランズマンの存在もそうだった。一度とは言え、王と同等の力を使う事の出来るクランズマンの存在も理が狂う一つの要因だった。


もうお分かりかと思いますが、ここで一つ謝らなければならない事があります。
私は、記憶を失っていません。尊さんや出雲さん、多々良さんやアンナ、ミサくん達吠舞羅のみんなの事は全部覚えています。勿論それ以外の事もすべて。でも、覚えていないと言うしかなかった。でないとみんな私から離れなかったでしょう?そうすれば、私は一人になる時間すら無かった。それじゃあ意味がない。先に言った通り、私は王として存在してはいけない存在。だから消える必要があった。
…本当に、騙してしまってごめんなさい。

何故記憶が失わなかったのか。それは、一重に私の唯一無二のクランズマンである夢宮真白の力のおかげです。彼がたった一度の力で願ったものは、私の副作用を消すことでした。彼は本来自分の事しか考えない排他的な人間でしたが、私の事を本当に大事に、大切に思ってくれていました。そんな真白の事が、私も大切で大好きなんです。だからこそ、そんな真白の想いを無駄にする訳にはいかないとは思ったのですが、それでも私は吠舞羅の側にはいれません。王同士が側にいる事は世界と拮抗が危ぶまれる。それ以前に、泡沫の王が誰かの側にいるなどあってはならない事だからです。


本当に、楽しかった。
これ以上ないってくらい、楽しかった。
けれど、そんな夢のような時間ももう終わり。真白のいない世界は、私にとっては地獄も同然。今までは「違う世界にいるから大丈夫、必ずいつか真白に逢える」、記憶がある間はいつだってそう思っていましたが、もう違う世界にすら存在しない。

いつか尊さん、私に言いましたよね?
「お前の目には何が映っているんだ」って。あの時はお答え出来なかったけれど、今なら言えます。
私の目には、沢山の幻が映っています。決して現実になり得る事などない、幻が。

さて、長くなりましたが、せめて最後に皆様への恩をお返ししようと思います。何もない私ですが、記憶があるのならば私は無限に力を使う事が出来る。
きっと、この手紙を読み終える頃には消えている事でしょう。こんな形でしか恩返しが出来なくてごめんなさい。


吠舞羅で過ごした時間は、私にとってかけがえのない大切な思い出です。褪せる事も消える事もない、私の大切な…。

本当に、ありがとうございました。


優衣より







読み終えた部屋には、静寂が広がっていた。



「…なんだよ、それ…。記憶は消えてなくて?でもここから去って…?」

「…八田、落ち着き」

「……きっと、優衣は自分を責めてる。記憶がないって騙した事もそうだけど、それ以上に“騙しきれてしまった自分”を責めてる」



十束が言ったそれに、八田はギリッと歯を食いしばった。

そんな八田を見た草薙は、何かを促すように周防へと目を向ける。その視線を受け取った周防は煙草に火をつけ、一歩を踏み出した。――その時だった。



「なっ……んだこれ!!」

「頭が…!! 痛い…!!」

「…ユイの…ユイの記憶が…!! ッミコト、どうしよう…!ユイの記憶が消えちゃう…!」



アンナが苦しそうに、瞳を歪めながら周防に縋る。その周防も痛そうにぐしゃりと自身の髪を握るが、痛みがなくなる事はない。



「ッ馬鹿野郎が…!!」



その言葉を最後に、部屋は眩い光に包まれた。
















「…成功、かな…」



あるビルの屋上で、優衣はぽつりと呟いた。成功、と言う割には、酷く寂しそうで、辛そうな声色だ。

つつ、と優衣の頬に涙が流れたかと思うや否や、優衣は膝から崩れ落ち、目の前にある鉄鋼の柵にしがみついた。



「ぁ、ぁあぁぁあ……!!」



悲痛な叫びが、どこへともなく響く。

もう、その涙を拭う人は、いない。



「…っ、…ふ、……すき、だいすき、…っだいすき…!」



吠舞羅が、みんなが、

どうしようもないくらい、

だいすき

みんなが忘れても、

私が全部覚えてる

だから、どうか



幸せになってください





手紙には書けなかった想いは、やがて青空へと吸い込まれていった。







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