もがく


マネージャー業にも大分慣れてきた頃、一年の投手二人はピンチに陥っていた。


「そんなとこで寝転んでたら風邪ひくよ、沢村くん」
「白崎…、まだいたのか!? もう暗いぞ!」
「こんな時間に帰る事くらい今まで何度もあったから大丈夫!……で、そんな顔してどうしたの?」


紗凪は笑いながら沢村の近くにしゃがみこむ。沢村は近くなった距離に戸惑いながらも「別に…」と言葉を濁した。
と、そこへ降谷がポケットに手を突っ込みながら歩いてきた。途端にガバッと起き上がる沢村だが、そんな沢村を見ずに空を見て「いい月だ」などと言い出す。


「月なんて出てねーよ!どんより曇り空じゃねぇか!」
「あ…本当ホントだ…」


コントのような遣り取りに、紗凪はこっそりと笑う。降谷とは話した事がないが、どうやらクールという訳でもなさそうだ。


「悔しいね…」


ぼそりと呟く降谷。声色の変わったそれに、紗凪も沢村も降谷へと目を向けた。


「力を出し切れずマウンドを降ろされることが、こんなに悔しいとは思わなかった…」


その言葉に思い出すのは、今日の試合だ。沢村も降谷も、二人とも今日はズタズタだったのだから。


「(そうだ、降谷くんは確か指を怪我したんだっけ?ケアがどうとか言われてたような…)」


いつの間にかタイヤの取り合いをしていた二人に近づき、紗凪は降谷に声をかける。
近くで三年の先輩が居たことなど知らずに。


「降谷くん」
「…何、えっと……」
「白崎だよ、よろしくね。それよりも指怪我したって聞いたんだけど…見せて貰ってもいい?」


降谷は素直に頷き、怪我をした右手を紗凪に見せた。


「…あれ、爪にトップコート塗ってない…よね?これ…」
「…塗らないとダメなの?」
「降谷くんみたいな豪速球を投げる人は特にね」


ストバスから帰ってきて、夜遅く、それこそ明け方まで野球の勉強をしていた紗凪は、その蓄えた知識を存分に発揮する。
新しい事を知っていくのは案外楽しいもので、紗凪の脳はまるでスポンジのように野球に関する知識を吸い取った。


「…っと、明日トップコート塗ろっか。ちょうど私持ってるから、明日持ってくるね。あと…あんまり爪切りで切らない方がいいみたいだよ?これからは出来るだけやすりで爪を短くしてね」


包帯の巻かれていた右手を揉みほぐし、紗凪はまた包帯を巻いていく。こう言った作業はテーピングを巻く緑色の彼に対してもよくやっていたため、手慣れた様子で綺麗に巻き終えた。


「…ありがとう」
「これでもマネージャーだからね!」


いい感じに仲良くなった二人を遠巻きに見ていた沢村は、タイヤを引きずったまま唖然としていた。
無理もない。今まで野球部の中で紗凪と親しかったのは、沢村だけだったのだから。


「…さて、沢村くん」
「はっ、はいいぃ!」
「……ぷっ、」
「わら、笑うな!!」
「っふ、あっはは!ごめんごめん!なんか面白くて!沢村くんみたいな人、今までいなかったからさ」


はー、笑った笑った!と目尻に涙を溜めて沢村に近づく紗凪。二人の距離が近くなった瞬間、紗凪は沢村の頭に容赦なくチョップを繰り出した。


「い゛ッ……!!」
「あの試合は何なのさ…。情けなくて途中から見てられなかったよ、私」


容赦のない言葉に、沢村は俯く。

“敗北”

この二文字を味わった事のない紗凪にとって、今回の試合はとてもじゃないが信じられなかったのだ。
恵まれた才能に、チームメイト。それが紗凪の育ってきた環境だった。

けれど沢村は違う。いや、ある意味才能には恵まれたかもしれない。だけど中学は恵まれなかったと聞いていた。
高校では恵まれた環境に入ってきたのかもしれないが、中学から恵まれていた人達に比べてみれば雲泥の差だ。


「あの時、何を考えていたの?」
「…コントロール、を……。ちゃんと、キャッチャーの構えた所に投げようと思って…」
「…沢村くんも沢村くんなりに考えてた、って事か…。でもね、沢村くんの持ち味はそこじゃないと私は思うよ」
「!!」


ルームメイトにも、チームメイトにも聞き回った自分の“持ち味”。沢村はもしかして紗凪なら教えてくれるんじゃ、と期待して俯けていた顔を上げて紗凪の顔を見たが、紗凪の目は沢村を見てはいなかった。
勿論、紗凪は沢村に教える気などさらさら無い。そこまで甘やかすつもりもなかったからだ。


「…俺、は……」


声に覇気がなくなった。少し言い過ぎたか、と頬を指先で掻きながら気まずそうに目を泳がせる。


「焦らなくても、答えはいつか出てくるよ。監督も、みんなも、きっと見てくれているから」


ニッと笑って紗凪は沢村の頭をぽんぽんと軽く撫でた。そんな紗凪の動作に沢村は惚けるが、すぐに覚醒しておおおー!と吠えた。
その雄叫びに、紗凪はまた可笑しそうに、羨ましそうに笑った。







「――あ、パパ?ごめんね、もうちょっと遅くなるかも……え?そうそう、いつものとこ。…うん、….わかってるってば。じゃあね」


紗凪は父親との通話を切る。溜め息を吐いて前を向くと、そこには御幸が居た。


「遭遇率高いですね、御幸先輩」
「はっはっはっ、運命だ、」
「それではお疲れ様でした!」
「人の話を遮るなよ!」


御幸の扱いに慣れてきたのは、紗凪は適当にあしらう。けれど、そこで逃がす御幸じゃない。


「まあまあ、…つか今からどっか行くのか?」
「え?あぁ…ちょっと体を動かしに…」
「一人じゃ危ないぞー?」
「大丈夫ですよ。近所ですし」
「んー…、よし!俺も着いて行ってやろう!」
「……えぇぇ!? いやいや、先輩はお疲れなんですからゆっくり休んでください!」
「はっはっはっ!いいからいいから!」


半ば強引に押し切られ、紗凪は申し訳なさでいっぱいになる。青道は家から近い距離にある事が幸いだ。

歩いた先に着いたのは、ストリートバスケだった。質素な作りだが、ここは紗凪が小さい頃から父親と一緒にバスケをした思い出深い場所でもある。


「体動かすって…バスケ?」
「はい。え…っと、」


ごそごそと鞄とは違うトートバッグから取り出したのは、バスケットボールだった。随分使い込まれているようで、表面はほんの少しつるつるしている。

飄々としていた御幸は一気に戸惑いを見せ、慣れた手つきでボールをバウンドさせる紗凪を眺める。そんな視線を受けながら紗凪はその場から一歩も動かずに、向かい側のゴールに向かってボールを放った。
ボールは綺麗な弧を描いて縁に当たる事なく、ザッと音を立てながらゴールネットをくぐった。


「えっ!? ここから大分距離あるぞ!?」


御幸は野球以外のスポーツはからっきしな分、驚きが凄い。けれどきっと今のシュートは誰が見ても驚いただろう。
何故なら、紗凪と御幸が居る場所はハーフコートの線よりも後ろなのだから。


「これくらいは…出来て当たり前と言いますか…」


もう慣れた反応に紗凪は苦笑いを零す。だから誰かと一緒に来たくなかったのだと、改めて思う。
そんな事を紗凪が思っているなんて御幸は知らず、つつ、と冷や汗を流した。



「(マジかよ…、白崎ちゃん…何者だ…?)」


その後は御幸も見ているせいもあってか、いつもの半分以上は力を抑えた。それでも放ったシュートは必ず入るのだから、それだけでも御幸にとっては凄い。


「……ふー…すみません。付き合わせてしまって」
「いや…面白いもんが見れてよかったぜ?」
「そう言っていただけたら嬉しいです。見ているだけではつまらないだろうと思ってたので…」


ボールを仕舞って軽く服を整える。帰る身支度の済んだ紗凪は、そのまま一人で家に帰ろうとしたが、御幸が送ると言うのでそれに甘えて送ってもらう事にした(ほとんど御幸の我儘)。


「ここです、私の家」
「…でけェ、つか家が近いって本当だったんだな!」
「そんな嘘言いませんよ!」


慌てたように早口になる紗凪を、御幸はいつものお調子者のような笑顔で見つめた。


「今日はありがとうございました」
「いいって…。それよりさ、白崎ちゃんは沢村の“持ち味”が何か分かってんの?」


いきなり問いかけられきょとんとする紗凪だが、すぐにああ、と思い出して頷いた。


「見たら一発で分かりますよ。けど…本人が自覚していないのであれば、沢村くんはいつまで経っても気付かないでしょうけど…」
「ま、クリス先輩がついてるし…。何とかなんだろ!俺は白崎ちゃんが気づいてるなんて思わなかったぜ」


肩を竦める御幸に、紗凪はどこか遠い目をした。いきなり表情の変わった紗凪を御幸は少し驚いた。


「…目が、いいですから」


自嘲したように吐いたその言葉は、いつまでも御幸の頭の中で反芻される。
目が良い奴なんてゴロゴロいる。けど、それとはまた“違う”ような…。


「ほら!明日も朝早いんですか早く帰って寝てください!送って下さってありがとうございました!」
「はっはっはっ、そんなに俺を帰らせたいか!」
「もー!先輩!」
「いて、イテテっ!帰る帰る!じゃあな、また明日」
「…はい、また明日」


遠くなる御幸の背中を、紗凪は最後まで見つめた。


「…いつか、お話出来たらいいですね……」


御幸と居ると、心が和らぐのは何故だ。
紗凪は少し違和感を感じるが、それも“少し頼りになる性格の悪い先輩”と言うことで無理やり自分を落ち着けた。








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