知ってしまった事情


その日の晩から、紗凪は父親に必死に頼み込んでいた。


「どうしてパパに指図されなきゃいけないのさ!」
「それならどうしてバスケをやめたんだ」
「っ……それ、は…」
「紗凪のバスケに対する想いは偽物だったのか?」
「違う!…ちがう、けど…っ、」


ぎゅう、と痛いくらい手のひらを握りしめる紗凪に、父親はふっと目元を緩めた。


「…なんてな」
「!!…パパ……?」
「紗凪の想いが偽物だなんて思った事は一度もない。ただ…、パパは紗凪がバスケをしている姿を見るのが好きだったんだ」


知ってる、と紗凪の口はそれを形どるのに、音にはならなかった。

紗凪の父親――白崎はるかは元プロバスケットボール選手なのだから。現在は足の故障で引退しているが、それでもその実力は外国人顔負けだった。
今も、キセキの世代にだって劣っているとは到底思えない程だ。


「ごめん……ごめん、パパ…」
「…たまにはパパとバスケしてくれるんなら、許可してやろう」
「ッ当たり前だよ!」


紗凪の答えに悠はニッと口角を釣り上げて笑い、くしゃくしゃと紗凪の頭を撫でた。乱暴なその仕草に紗凪もやっと笑って、最後に「ありがとう」と礼を言ったのだった。


キセキの世代アイツらには何て言うつもりなんだ?」
「…考え中」
「早めに言っとくんだぞ?でないと後々面倒になるからな」
「はーい」


やっと元の空気に戻ったリビングは、二人の笑い声が夜遅くまで響いていた。







翌日、野球部の部員達を目の前に紗凪は片岡の隣で立っていた。緊張はしていない、ただ刺さる視線の数々が痛いだけだ。


「この度正式に野球部のマネージャーになった。今から本人から挨拶してもらう」


それが合図だったのか、片岡は紗凪へと一瞬だけ目を向けた。紗凪も事前に言われていたので、一度こくりと頷いてから一歩前へと足を踏み出す。
試合とは違う緊迫感が紗凪を包む。ここには自分を知っている人がいない、という安心感から紗凪は口を開いた。


「監督の紹介に預かりました、白崎紗凪です。野球経験はありませんが、皆さんを精一杯サポートしていきたいと思っていますので、どうぞこれからよろしくお願いします!」


最後に礼をすると、紗凪に拍手が贈られた。その意味も分かっているので、もう一度礼をして一歩下がって片岡の斜め後ろに落ち着いた。

それから部活はいつも通り始まり、紗凪は先輩マネージャーに連れられて物の位置や仕事について教えられていた。


「だいたいこんな感じかしら。どう?やっていけそう?」
「はい。わざわざありがとうございました」
「ふふ、いいのよ。それじゃあ…スコアは……書けないわよね?」
「すいません…」
「初めはみんなそうよ!なら今日は二軍でスコアの書き方から始めましょうか」
「はい!」


これから野球の事を勉強していかないとな、と紗凪は痛いくらいにそう痛感して、貴子に着いて行く。
二軍の練習場には、何かと仲良くしている沢村もいて少しホッとした。


「沢村君は相変わらずね…、クリス君とも上手くいってないみたいだし…」
「クリス…先輩?」
「そう。クリス君も正捕手だったんだけどね…、去年肩と腕の筋肉が断裂しちゃって…」


――故障。
その言葉を聞いて、紗凪は思わず固まってしまった。選手にとって故障は付き物だが、それは完治するものもあれば、一生付き合っていかなければならないものだってある。

「(貴子先輩の言い方だと…)」と、紗凪はそこまで考えて無理やり頭から追い出した。決めつけるのはよくない。その場面を見ていないし、怪我の進行度も知らない。


「…っと、どう?」
「こんな感じで大丈夫ですか…?」
「そうそう!飲み込み早いわね!」


貴子に褒められて少し嬉しくなり、顔が綻ぶ紗凪。こうして、マネージャー1日目は幕を下ろしたのだった。



「(――だめだ、クリス先輩の故障が思ったよりも頭に残ってる…)」


片付け中もそのせいでなかなか手に付かなかったのを思い出し、人知れず溜め息を吐く。
練習中もそれとなくクリスを見ていたが、故障のせいか練習には参加せず、ただひたすら練習風景を眺めていた。


「そう言えば高島先生に呼ばれてるんだった…」


着替えも済まし、紗凪はスカートを翻して高島の元へ急いだ。


「遅れてすみません!……って、え?」
「んぎっ!み、見るな!こんな俺を見るな〜!」
「時間ぴったりよ」


シュール、その一言だった。まさか沢村が高島の目の前で正座してるだなんて思わなかった分、衝撃を受けた紗凪は苦笑いしながら沢村の隣に立つ。


「どうだった?部活1日目は」
「充実してました。…早く役に立てるように、私も頑張りますね」
「ふふ、頼もしいわね」


すると、そこで部屋の扉が開いた。


「礼ちゃん、昨日のスコアブック見せてもらいたいんだけど…」


入ってきたのは御幸だった。紗凪は何かと自分に絡んでくる御幸を少し苦手と思っているので、気付かれない程度に顔を歪める。
けれど、そんな紗凪よりもやはり正座している沢村に目がいったのだろう。御幸は見るなと叫ぶ沢村に笑って「最高」とからかったのだから。


「あれ、白崎ちゃんじゃん」
「(白崎ちゃん…?馴れ馴れしいな…)お疲れ様です」


馴れ馴れしく呼んできた御幸に、淡々と返事する紗凪を御幸は冷てぇ!とケラケラ笑う。


「…私の人選ミスだったかな。このコ、クリス君とうまくいってないみたいなのよ」
「まあ、あの人はなかなか他人に心を開くタイプじゃないからな〜〜」


高島の言葉に御幸はスコアブックを見ながら答える。紗凪もクリスの事は気になっていたため、口を挟む事なく静かに聞いていた。


「けど…今のチームで一番野球に詳しいのはあの人でしょ!選手の能力を見抜く力もあるし」
「………」
「そう思って彼をつけてあげたんだけどね」


ムゥ、と目を釣り上げた沢村を見た紗凪は、この後沢村が何を言い出すつもりかを何となく分かり止めようと口を開くが、それよりも先に沢村が言ってしまった。


「けど、全然やる気ねぇじゃねぇか、あの人….。今日だってさっさと帰りやがったし」
「おいおい、それはな…、」
「俺は…俺は、アンタに受けてもらいたい!」


それは、言っていい事だったのだろうか。紗凪はここまで言う沢村を呆然と見つめた。
今のをバスケに例えるとするならば、「お前からのパスは受けたくない」と言っているのと同意義なんじゃないか?

もし、もし自分がそう言われたらどうするだろう。そう考えてゾッとした。


「まあ…そんなにあせるなよ…。あの人についていけばお前、間違いなく成長できると思うぜ」
「イヤだ!あんなやる気のねぇ奴とは組みたくねェ!」


次いで、沢村は言ってはならない事を口にした。


「なんであの人がここにいるんスか?やる気がねぇならさっさと辞めればいいのに」


その言葉を聞いた御幸は、グッと沢村の胸倉を掴み壁へ押しやった。いきなりの事に沢村は驚くが、それでも御幸の怒りは治らない。
紗凪も気づけば自分の拳を痛いくらいに握りしめていた。


「お前が上を目指したい気持ちは二・三にも十分伝わってる。この間の試合を見ればな…。
けど…、今の発言だけは許せねーわ」


その声色からでも分かる、御幸の怒り。思わず高島が御幸の名前を呼ぶが、御幸は舌を鳴らした後スコアブックを持って出て行ってしまった。

――バタン

扉の閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


「…たった数日だけで、その人の本質は見抜けない……」
「…え、」
「今の発言は、軽率だったと思うよ」


沢村に対して冷たい言葉を投げる紗凪。それはグサグサと沢村の心に突き刺さるが、優しい言葉をかけるつもりなど毛頭ない。


「白崎さんは知っていたの?クリス君の…」
「貴子先輩からお聞きしました」
「そう…なら、これから少し行くところがあるんだけど、白崎さんは…」


その“行くところ”がどこかすぐに分かった紗凪は、ふるふると首を横に振った。高島も予想していたのだろう、すんなりとそれを受け取る。


「それじゃあお疲れ様。気をつけて帰りなさい」
「はい、高島先生もお疲れ様でした。…沢村くんも、お疲れ様」


放心状態の沢村にも声をかけて、紗凪は部屋から出た。なるべくゆっくりと扉を閉めて。


「…故障、か……」


小さくそう呟き、紗凪は左脚の爪先でトントン、と地面を突いた。今でこそちゃんと動くが、あの時・・・は不安で不安で堪らなかった。

もしも、動かなくなったらどうしよう。
もしも、バスケが出来なくなったらどうしよう。

当時は毎日それしか考えてなかったかもしれない。それくらいあの頃は絶望的だったし、バスケを見ることさえ嫌だった。


「あれ、開いてない…」


どうやら父親はまだ帰ってきていないらしく、玄関の扉の鍵は開いていなかった。紗凪は鞄から鍵を取り出し、扉を開けて中へ入る。
そこでふと視界に入ったのはバスケットボールだった。紗凪は暫くそれを見つめた後、何を思ったのか急いで階段を駆け上がり、ジャージに着替えてまた降りてきた。


「えーっと、……よし!」


リビングの壁に掛けてあるホワイトボードに、“ストバス行ってきます”と書き込み、玄関で靴を履いてボールをしっかりと片腕に挟み込んで外に出た。
勿論ちゃんと鍵を閉めて。








back