忘れていた“何か”


翌日、沢村に言われた通り学校にやって来た紗凪は、もう行くことはないだろうと思っていたグラウンドへ足を踏み入れた。
既に練習は始まっていて、野球部の声が広いグラウンドに響いている。


「あ、片岡先生だ」


沢村にアドバイスを求められた以上、まずは片岡と話をしなければならないと気づいた紗凪は、片岡が歩き出したタイミングを見計らって話しかけた。


「あの、片岡先生!」
「何だ」
「(さ、サングラスのせいで怖い…!)じ、実は昨日、沢村くんから投げるアドバイスが欲しいと言われていて…。お時間ありますか?」


片岡は暫し考えた後、重そうに口を開いた。


「沢村には投手陣の練習をこなしてもらうに当たり、三年の捕手が付いている」
「なら私は必要なさそうですね」


実は人に何かを教えた事がなくて不安だったと笑う紗凪を片岡は見つめる。実のところ、紗凪をマネージャーに引き入れたいという声が出始めていたのだ(主に御幸から)。

その並ならぬ動体視力と反射神経。ここで腐らすには勿体なさすぎる代物だ。


「白崎」
「はい?」
「マネージャーになる気はないか」
「マネージャー…?」


まさかそんな事を言われるとは思ってもみなかったのか、ぱちぱちと瞬きする紗凪の様子に、一つ頷く片岡。
紗凪は少し考え、せっかく今日来たのだからと言うことでまずは見学から、ということに。


「みんなの前で紹介するか?」
「いえ、この雰囲気を壊したくはないですから…。私が正式なマネージャーになった時でお願いします」
「フッ…わかった」


そうして連れてこられたのは、グラウンドの奥。途中女の子達の黄色い声に顔を顰めたのは秘密だ。


「あれ、沢村くんは…」
「今頃ブルペンだろう。さっき言った捕手と一緒に投手練をこなしてる筈だ」
「なるほど…。えっと、私は何をすれば…」
「今日は見学なんだろう。ここで練習を見ておけ」
「は、はいっ」


そう言って片岡は指示を出しに歩き出す。残された紗凪は一人寂しさに落ち込みながらも練習を眺めていた。
最初はただ眺めていただけだが、だんだんとその眼は観察者のようなものへと変化していく。


「…全国レベル、か」


片岡監督は指導者として申し分のない手腕だ。例え誰が何と言おうとそれは変わらない。
紗凪は素直に片岡の凄さを受け入れていた。


「ちょっといいかしら」
「はいっ!え、っと…」
「あぁ、私は3年の藤原貴子。マネージャーよ」
「あ、私は1年の白崎紗凪です!」
「ふふ、よろしくね。っと…ちょっとこっち来てくれないかしら?監督からの許可はもらってるから」
「?はい、」


貴子に連れてこられた所は、野球部の部室。その一角にあるテレビの前に座らされた。


「最後にこれを見てから、野球部に入るかどうか見て欲しいの」
「はぁ…」
「すっごくかっこいいから。きっと貴方も感動するわよ」


貴子がテレビをつける。どうやらそれは録画されているもののようで、紗凪は戸惑いながらもテレビへ目を向けた。







「礼ちゃん、今頃白崎ちゃんはアレ見てんの?」
「えぇ、そう頼んだからね」
「ふーん…、あれだけで大丈夫なの?」
「…きっと、大丈夫よ。あの子はチームに飢えてるから」
「は?それって……」
「ふふ、これ以上は駄目」


そんな会話がされていたなんて知らず、紗凪は流れ始めたテレビを見つめていた。




《俺達は誰だ…?》
《王者 青道!!》

《誰よりも汗を流したのは――》
《青道!》

《誰よりも涙を流したのは――》
《青道!!》

《誰よりも野球を愛しているのは――》
《青道!!!》

《戦う準備はできているか?》

《おぉぉ!!!!》


《我が校の誇りを胸に、狙うはただ一つ――全国制覇のみ!!

いくぞお!!!》

《おおおおおお!!!!!》




プツン、と電源が切れる。シン…と静まり返った部室で、貴子が口を開いた。


「どうだった?」
「…感動、しました……すごく…」
「…な、泣いてるの?」
「へ……あれ、どうして…」


ぽたぽたと涙が頬を伝い、膝の上に置いていた手に落ちる。
そんな紗凪に貴子はクスリと笑い、その頭に手を伸ばした。優しく頭を撫でられ、紗凪は更に泣いてしまう。


「…っ、チームって、凄いんですね…」
「野球は一人じゃできないもの」
「…わたし、忘れてた…っ…」


ぎゅう、と手のひらを握りしめる。未だ流れる涙をごしごしと擦り、立ち上がった。


「見せてくれてありがとうございました、藤原先輩」
「貴子でいいわよ、紗凪」
「え…」
「だって後輩になるんでしょう?」


全部わかっていた貴子に、紗凪は敵わないとでも言うような笑みを向けた。


「これからよろしくお願いします、貴子先輩!」
「えぇ。ほら、監督の所へ行ってきたら?ちょうど終わった頃だと思うわよ」
「はい!」


貴子に促され、紗凪は部室から出て走って片岡の元へと行く。貴子の言う通りちょうど部活が終わったところで、みんなぞろぞろと此方へ向かってきていた。


「(そうか、みんな寮なんだ…楽しそうだなあ) …っと、片岡先生…じゃなくて、監督!」


呼び方を先生から監督へと変える。
大声で片岡を呼んだからか、部員達も紗凪へ目を向ける。その中には勿論御幸もいた。
ニヤ、と面白そうな笑みを浮かべた御幸は、足を引き返して紗凪と片岡達の元へ。


「…決心が着いたようだな」
「……はい」


紗凪は綺麗に頭を下げると、自分の思ったこと全てを一言に込めた。


「マネージャー、させて下さい」


その想いの込もった一言に、片岡は満足気に頷いた。


「頼んだぞ、白崎」
「はい!」


本格的なマネージャーは明日からということで、紗凪は帰ろうと小走りでグラウンドを出ようとする。けれど、御幸に話しかけられて足を止めた。


「よっ、俺のこと覚えてる?」
「勿論ですよ。御幸先輩、ですよ、ね…?」
「お、当たり!何でそんな不安そうなの?」
「いや…間違えたらどうしようと思いまして…」
「はっはっはっ、別に気にしないさ。…で、野球部入ったんだ?」
「はい。至らない点もあると思いますが、これからよろしくお願いします!」


素直な紗凪の態度に、御幸はぱちくりと目を瞬かせる。無理もない。今まで憎たらしい後輩(沢村や降谷)ばかりだったのだから。


「あの掛け声、見たんだって?」
「はい…、あれにはとても感動しました」
「だろうな!」
「…なんだか、チーム一丸となってると言いますか…、その姿に感動しました。チームと一緒に戦っているってことを、思い出させてくれたので…」
「え……」
「それじゃあ、今日はこれで失礼しますね!お疲れ様でした!」


御幸の話をこれ以上聞く気はないのか、無理やり話を終わらせてさっさと帰ってしまった紗凪。
御幸は完全に紗凪の姿が見えなくなるまでその場にいたが、やがて夕食の存在を思い出してやっとその場から動き出した。

紗凪が言った言葉を考えながら。








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