姫のヴァリアシオン



「あーバイト面倒くさいー!でも名前とのカラオケ代だと思えば頑張れるから!今度絶対だよ?」

「分かった。バイト頑張ってね」

「じゃあね、名前!」

「うん、また明日」

笑顔で見返りながら反対側の道へ行く友達の背後には太陽が橙色に輝いていた。今日は講義が三限までのためまだ一日の残り時間がある。私は振り返り、さて、どうしようかと考えながら歩きだした。

(家に帰ったら課題を、いや彼処のカフェにしようかな。家ではお父さんが仕事してるかもしれない)

大学の最寄駅への道を進んでいたところを横道に逸れ、お気に入りのカフェへ行き先を変更する。入学してすぐの頃、付近を散策していたときに見つけた、駅からもほど離れた個人経営の喫茶店。学生らしき人が店内にいたことは見たことが無く、周辺の住民が憩いの場として使うような静かな場所で、落ち着ける空間だ。よく行くため顔は覚えられているだろうが、五十代くらいの男性の店主は、寡黙な人で最低限のこと以外は滅多に話さない。然し柔和な雰囲気を崩すことがない、心地の良い距離感だ。

暫く歩いて店に着く。からんと扉を開けると鳴る鐘は、店主が何処かの国に旅行に行った際のお土産だと、指で数えられる程度の会話のどれかで話していたのを記憶している。

「いらっしゃいませ」

「こんにちは」

鐘の音に店主は作業の手を止めて綺麗なお辞儀をする。私は軽く会釈を返していつも座る窓側のテーブル席へ着いた。



「今日はコーヒーがペルーから、お茶は中国からカーネーションの工芸茶が入りました」

「悩みますね…でも今日はコーヒーにします。茶葉はまた今度に」

「畏まりました」

店主が去り、鞄から教材とノートを取り出した。明日期限の課題の確認と、時間はあるがやらなくてはならないものがあるのだ。暗くなるころには帰れるように頑張らなければ。







玄関のドアを開けて小さな声で「ただいま」と帰りの挨拶をする。玄関に靴は置かれておらず、客人は居ないことを確認した。パンプスを靴箱にしまい、スリッパに履き替える。玄関正面にかかった時計が6時を指していた。

リビングを覗くと、アイランドキッチンで家政婦が夕食を作っていた。

「あらお嬢様。お帰りなさい」

「ただいま。お父さんは?」

「お部屋にいらっしゃると思います。あと30分ほどでお夕飯が出来ますよ」

「わかったわ」

一旦吹き抜けの玄関ホールへ戻り、二階への階段を昇っていく。

苗字の家は割と“普通”だ。地名は世間に知られている住宅地域に住んではいるが周囲と比較して飛び抜けて豪邸な訳では無く、友達から冗談半分でいわれるような学校までの送迎の車がある訳でもない。私が小さな頃に世話係としてシッターを雇っていた。彼女は私が小学校低学年の頃に居なくなったが、母親が四年前に亡くなってから新しい家政婦を雇っているのみだ。時々庭師が剪定に来ることはあるが他に使用人は抱えていない。会社は精密機器を中心とした貿易業。祖父が起業してから数十年で急成長してきた会社で、彼の死後、今は名前の父親が2代目となり社長の座についている。

昔からある名家や財閥とは少し違う立場なのだ。しかし業界上位を保ち続けてきているためそのような人々に囲まれる会合や家族を伴ってのパーティーに呼ばれることも多々ある。ぽっと出の若造と呼ばれた時期は過ぎたが、未だ複雑な立場である。

父のことを“お父様”と呼ぶような漫画に出てくるような家ではない。然し名前の教育は将来の為とかなり厳しく行われた。マナーは勿論、楽器に茶道に社交ダンスも習った。小さい頃からアニメの代わりにニュースを母の膝の上で見せられた。多忙な中でも月に一度は必ず外食に行き、其処では様々なことを教わった。
今は両祖父母と母親は既に鬼籍に入っており、きょうだいも居ないため父親だけが唯一の家族である。父は厳格な人で、仲睦まじい関係とは言い難かった。

二階に上がり、一室の扉をあけてスイッチを押した。天井から下がった小ぶりなシャンデリアがぱっと明るく部屋を照らした。十九歳の娘が一人暮らすには広すぎる部屋は、天蓋付きのベッドにドレッサー、そして勉強用の机が置かれていた。若干少女趣味を感じる家具は名前ではなく母親の好みで、彼女は一人娘を厳しいながらも愛情込めて育ててくれたのが表れていた。名前は机の上に鞄の中身を並べてから、はたと動きを止めた。

「ファイルが無い…」

明日提出の課題をしまったファイルが鞄に入っていないのだ。もう一度見返したが見つからない。

(あー、あのとき…)

テーブルの上がいっぱいになってしまい向かいの椅子に一旦ノートを置いた。そしてそのまま忘れて帰ってきてしまったのだろう。提出は二限。一限にも授業があり、開店は午後からのため朝に寄るという選択肢もない。やってしまったと頭を抱えた。

はあ、と深く溜息をついて財布と定期券だけを持った。この時間ならまだ開いているだろう。面倒だが他にどうしようもない。



「おや、名前。また何処か行くのか?」

階段を下りていくと後ろ手に自室のドアノブに手を掛けた状態の父がいた。丁度仕事が終わって出て来たところだろう。

「忘れ物しちゃって取りに行ってくる。大学近くのカフェ」

「そうか。気をつけて行ってきなさい」

靴箱を開けてスニーカーを無造作に落とした。閉店時間までまだ時間があるとはいえ急ぐに越したことはない。

「ご飯先食べてて。いってきます」


***


ファイルを胸の前で抱えて一歩下がった。帰宅ラッシュ時間帯の電車内で、剥き出しのままファイルを持っているのは少し恥ずかしくて鞄を持って来ればよかったと後悔した。

息を切らして店内に入ると店主は「気付かれて良かった」と笑ってレジ下から忘れ物を手渡してくれた。中身も問題なかった。これで明日の提出は大丈夫そうだ。
更に乗ってきた人にきゅっと身体を縮こまらせる。何度乗ってもこのパーソナルスペースが皆無になる状態は好きじゃない。


漸く家の最寄駅に到着して、ホームに降りた。夕御飯はとっくに食べ終わっているだろうなと考えながら駅を出ると、何だか街の様子に違和感があるように思えた。胸騒ぎがする。空気が騒然としている気がする。

なにかに急き立てられるように早足で家へと向かう。女性の「あれ、あの子苗字さんちの…」という話し声がすれ違いざまに聞こえた瞬間、走り出していた。


嫌な予感がする。

気のせいであってくれと願いながらアスファルトを蹴り上げた。

自分の息が煩い。沢山の人とすれ違って、何か叫んでいる声がくぐもって聞こえた。一体この先に何があるんだ。

知りたい、知りたくない。

嫌な予感なんて、そんなのは



「……嘘だ……」



目の前の光景は何であろうか。角を曲がって捉えたものはあまりに信じ難く、思考も、足も、動かなかった。


眼前に広がるそれを、ただ呆然と見つめることしか出来なかった。


「燃えてる…?何で……何が起きてるの…?」


立っている障害物を押し避けながら熱源へと近づいていく。腕に絡みついてくるものを振り払い、炎が上がっている家の前に立ちすくんだ。全体から煙が昇っており、二階の窓から、部屋の中に火が回っているのが見えた。

閉じることのできない眼球から涙が溢れていくのがわかった。



「お父さん…家政婦さんは…?」



「下がりなさい!」
「すぐ消防車が来る!」



「居ない…。居ないの…?」



朱色に燃え上がる炎の背後の、澄んだ紺の空に満月が浮かんでいる。



「待て!行っちゃ駄目だ!」
「止まって!名前ちゃん!」


「やだ……助けに行かなきゃッ!」


私は駆け出し、扉を開けて家の中に入っていった。ぶわりと身体全体に熱を受けたが、戻るという考えは浮かばなかった。姿勢を低くし、なるべく煙を吸わないように腕で口元を抑えた。

煙を潜って廊下を進み、父親の部屋の扉を開けた。四方の壁が燃えていたが床に誰かが倒れている様子はなく、引き返してリビングへ向かったが此方も人の気配はしない。この時間なら家政婦は帰っていたんだろう。きっとそうだ。

ウッ、と息が出来なくなり腕を口から離してしまった。しまった、と思って視界に入ったキッチンに駆け込んだ。レバーを力任せに回し、バルブを伸ばして顔から水を被った。全身を濡らしてから一気に水を飲み込んで、覚悟を決める。

廊下を全速力で走って、階段を駆け上った。思い当たるのは二階の父の仕事の資料が置かれている書斎だ。


「お父さんッ!!」

扉を開け放つと篭っていた熱気がぶわりと襲いかかってきた。並べられていた棚は全て倒れていて燃え盛っている。まるで地獄絵図だ。

「…ぁ…か…?」

「そこに居るの!?」

右側から人の声が聞こえて駆け寄ると棚の下から腕が投げ出されており、その先に頭から血を流したお父さんが下敷きになっていた。


「お父さんっ!今、今助けるから!」

「ゴホッ…!名前!駄目だ!今すぐ逃げろ!」

「そんなこと出来ない!」

棚を持ち上げようと掛けた腕が、がしりと下から掴まれた。


「聞け!私のことは良い、家政婦も居ない!お前は、逃げろ」

下敷きになっているお父さんに引っ張られてしゃがみこむと今までに聞いたことの無い声色で云われた。

「やだ、やだよ、だって、」

「名前!しっかりしろ!お前は生き残るんだ!!」

そして酷く咳込んだ。その様子から彼の死が差し迫っているのがまざまざと感じられて全身が震えだす。私の腕を掴んでいた彼の手がずるずると滑り、私の手を握った。

「いいか、名前。会社は捨てろ。一切関わるな。なにをしてでも生きるんだ」

お父さんはまるで私の瞳を睨むかのように目を見開いた。そして握っていた私の手をより強く握りなおした。指がもげてしまうのではないかと思うくらい強く。

「…お前に…これをやる。これは親父と、私からの形見だ。しかし身に危険が迫った…万が一というときまで…決して使うな……頼む、頷いてくれ」

「うん、うん…判った、だから、」


「名前!!」


太くて威厳を孕んだ声が心臓を震わせた。


「…愛している、名前。これがお前の中で永遠に…眠ることを、わたしは、いのっ、て…」





「…嫌ッ…!」


飛び上がるとそこは火の海の中ではなく暗い部屋の柔らかなベッドの上だった。勿論、目の前に死に瀕している父親はいない。月光に青白く照らされた今の私の生活空間だ。


「ッ…はぁ……」


大きく息を吸い込んだ。汗でパジャマは張り付いており、頬は涙で濡れていた。こんなにリアルな夢を見たのは久し振りで、吐きそうなくらい気持ちが悪い。

水を飲みに行きたいのに気力が無く、上半身を起こした状態で脱力したままぼう、と虚空を見つめた。夢に魘されることはあの日から何度もあったが、こんなに鮮明に出来事を回想するような夢は初めてだった。

というより、今の夢で思い出したというほうが正しい。煙をかなり吸っていたから意識も覚束なかったのだ。

あの後の記憶はほとんど覚えていない。すぐ消防隊が乗り込んできたような気がするが、次に思い出せるシーンは父親の葬式だ。

「あのとき、くれたの…なんだっけな…」


最期に手に握らされた物はなんだっただろうか。大切なもののはずだ。


「なんだっけな……」


なのに、それを今持っていないということはどこかのタイミングで落としてしまったのだろう。


ギュッと手を胸の前で握りしめて、掴んでいたはずのものを抱きしめた。胸が締め付けられて、ぱたりぱたりと布団に涙が落ちた。


「…なさい…ごめんなさい…ごめんなさい…」


涙と私だけが呼吸をしていることへの罪の意識が止まらなかった。



『貴女は何も悪くありませんよ』



いつだったか云われた言葉が残響のように頭の中で反復した。懺悔と赦免で脳内がぐちゃぐちゃになって、もう狂ってしまいそうだ。


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