呪文
瞼を上げる。
今日は眠くもないのになんだか目が滑って本に集中できなくてもどかしい。瞼を閉じて一息ついてみても上手くリセットできなかった。この物語の主人公である少女はこの後どうなるのか。気になるはずなのに、気持ちと身体が一致していない感覚は自分でも不思議なくらいだった。
私の座っているソファの隣の小さな丸いテーブルの上に葉が一枚落ちていたのでそれを挟んで本を閉じた。今日は読書は諦めようと思った。
葉は花瓶に挿してある数本のバラのどれかから落ちたもののようだ。ゴンチャロフが先日三人で出掛けたときに持ち帰ってきたもので茎の棘は丁寧に取り除かれており、誤って触れたときに怪我をする心配も無い。数日経ったはずであるが、萎れる様子もなく、未だ綺麗に咲いていた。
「ねえフョードル、このバラ長く持つわね」
「そうですね。毎朝の彼の手入れの賜物ですね」
「延命剤を入れているのかしら?ああ、砂糖を入れると長持ちするなんて聞いたことがあるわね」
「そうなのですか。初耳です」
彼はテーブルの上に数冊の本を置いたまま開きもせず椅子に座っていた。多分なにか考え事をしているのだろう。
彼のほうに目を向けると夕陽がちょうど広間の大きなガラス窓から部屋に差し込んでいるのに気づき、思わず顔をしかめた。
「ねえ、そろそろカーテンを閉めない?西日が眩しくて」
傾いた太陽の光は強い。この広い部屋を夕陽で染めあげ、寒色系であるはずの彼の顔色も橙色に見えている。
なにより、昨日の夢のせいか重い靄が掛かったような気持ちが払いきれない。段々赤みが強くなって、茜色が拡がっていく様がどうにも
「あの日のことを思い出す、ですか?」
「……え?」
彼は椅子に座ったまま、顔だけこちらに向けた。
「夕陽が炎のようで嫌、なのでしょう?」
「、ッは?」
彼の顔は逆光で何も窺い知れない。体内全ての血液が流れ落ちていく気がして、頭のなかがぐるぐる回って気持ち悪い。
「どうしてそのことを知ってるの?ああ、いつの間にかそんなことも話しちゃったのかな。そうなの、部屋の中が燃えてるみたいでしょ?だから早く閉めてほしくて、そう、昨日みた夢のせいだわ」
「普段はロマンチックだと思えるわよ、でも今日はずっと心が落ち着かないし、だから早く閉めて…ねえお願い早く!」
炎に囲まれていく感覚に耐えられずに顔を覆って蹲った。呼吸が苦しい。口元を強く抑えすぎてるからか。でも煙は、吸っちゃいけないから、なるべく息はしないように、早くここから逃げないと。でも身体が動かなくて、どうにも焦る。
「名前さん。此処は燃えていませんよ」
「っ、いそがないと、はやく、」
そうだ、お父さんを助けに来たんだ。早く行かないと助けられないから急がないと。
「名前さん。目の前にいるのはぼくです」
「ごめッ…ごめん、」
違う、お父さんは助けられなかった。目の前で、私の目の前で死んだじゃない。私はいくら謝っても、赦されない罪を犯したんだ。
「名前」
はっと息を飲んだ。顔から手が引きはがされ、誰かの手が顔を包み込んだ。
ゆらり、
ゆらりと誰かに焦点が合った。私だ。私が居る。私が私を見つめてる。紫色の水晶のようなものに映り込んでで、ひどい顔をしている。
ぱちりと一瞬消えた、幕が下りるように、いや違う。私を見ているのは、この水晶体の持ち主は、
「フョードル…」
「そうです、あなたの目の前にいるのはぼく、フョードル・ドストエフスキー。此処はあなたの実家ではありません。カーテンは閉めました。呼吸を整えてください。大丈夫ですから。ほら、まず吐いて、それから吸って、そうです…」
・
・
「落ち着きましたか」
「うん…ごめんなさい、取り乱しちゃって…」
しゃがみこんだフョードルに背中を撫でられながら呼吸に集中する。やっぱり、今日は本当にだめみたいだった。
「実はあなたに話したいことがあるのです」
「え…?」
「座りましょう。長くなりそうですから」
私の返答を待たずにフョードルは私の肩を支えて立ち上がった。彼は私を椅子に座らせて、テーブルを挟んで向かいに腰かけた。いつかと同じような場面だと思った。
「…名前さんの身に起こった事件のことについては、当初から知っていました。注目度の高い会社の社長が死んだのですから当然です。ですから名前さんから聞いたわけではありません」
まず彼は、さっき私が混乱した状態で口走ったことの否定だった。たしかに少し冷静になればわかるようなことだったが、あの夕陽は本当に怖かったのだ。
「しかしぼくはそのことについて幾つか疑問がありました」
そう云って口元に丸めた人差し指を当てた。
「あれほど大きな家全体に、消防が到着する前に火が回るでしょうか?周辺住民も煙に気づけば電話をするでしょうし、日本の消防もそう遅くありません」
「そして社長がある日突然死ねば会社が大混乱に陥るのは当然です。ですがそのまま次代が立たずになぜか有耶無耶になって解体してしまいました。少し違和感を覚えませんか?」
「ちょっと待って…そんなに一気に言われても…」
「そして一番は、両方の祖父母が亡くなっていたとしても遠い親戚は居たはずなのにどうして独りとなってしまった名前さんを助けてくれなかったのでしょう。覚えていますか?」
「え、っと、待ってね…その頃はずっと気が動転してたからあんまり覚えてなくて…」
確かにそういわれてみれば何故なのだろうか。母方の叔父は健在であったし、母が亡くなった後も交流は切れてなかったし関係は良好なままだった。それなのに叔父から手を差し伸べてもらった記憶がない。
「名前さん、あなたはどうしてここまで酷い目に合わなければならなかったのでしょうか」
今まで様々な種類の感情を孕んだ視線を向けられてきた。それらと彼の視線が被って一気にフラッシュバックしてくる。
悲哀、憐憫、同情、仁慈、傍観、安堵、嘲笑…
それらの感情は表情では偽れるが、目線で私を針山のように突き刺してしてきたのだ。
「そんなの…もうわからない…」
昨日から辛いことを思い出してばかりだ。もう忘れてしまいたいことだったのに。
「不可解な点がたくさんありましたから調べてみたのです。ぼくたちは“鼠”。潜り込むことは得意ですので」
「調べてくれたの?フョードルが?」
俯いていた顔を上げると、彼はテーブルの上に手を置いて私を見つめていた。背景は夕陽で照らされたカーテンが薄橙色に輝いていた。
「名前さん、真実を知りたいですか」
まるで審判を下そうとするかの如く神妙な口ぶりで彼は私に問いかけた。
真実、と云われて少し考える。真実と事実は何が違うのだろう。家が燃えた、父が死んだ、そして私は天涯孤独になった。それらは紛れもない事実である。ただ、それらが起きた理由がただの運の悪さではなく、ほかの何かによって引き起こされたものだったら?それが真実なのだろうか。
彼は私に覚悟はあるかと聞いているのだろう。”真実”は私を傷つけかねないものなのかもしれない。しかし、だからといって過去が変わることも死者が生き返ることも現状が変わることも、恐らくない。ただ、それで私が”生きてる理由”を見出すことが出来るのならば、傷付くことになるとしても。
「ええ…もう失うものなんて、なにひとつ無いもの」
フョードルは私の返答に満足そうに笑い、ひとつ頷いた。
「そもそもあの火事の原因はなんだったと思いますか?」
「あの家で火を使うところなんてキッチンくらいしか…あれ、でも」
そういえば、父を探しに火の中に飛び込んだあとシンクで水を頭から被ったのを思い出した。そのときリビングの壁は燃えていたが、床ははっきり見える状態だった。キッチンが火元であるとは考えにくい、だがあの家には他に火種になりそうなものは特に無かったはずだった。
「まさか、」
「そう、あれは放火です」
「うそ…」
「恐らく数か所から火炎瓶を投げ入れられたと考えると火の回りが異常に早かったことの説明が付きます。周囲の住民が気付いた時には既に遅かったのでしょう」
「うちは、そんな、人から恨まれるようなことは」
「さて、」
私の言葉を遮るように彼はそう云って椅子から立ち上がると、片手を机につき首を傾げて微笑した。
「あなたは会社での父親のことをどのくらい知っていましたか?会社のことは?」
「それは…」
「あなたの祖父が立ち上げた会社が著しい成長を遂げた理由は?」
責められるように立て続けに質問され、情けない気持ちになった。私は家にいる父親の姿しか知らなかったのだ。
何を知ったつもりになっていたのだろう。
「ここから先は名前さんに大きなショックを与えることになるでしょうが、それでも?」
再度彼は私に問いかける。でも、もう薄々話の流れが見えてきてしまった。それを確信的なものにするのには勇気がいる。
信じたくないことだった。
「…祖父と、会社を継いだ父が何かしていたのね…誰かから、恨まれるようなことを…」
彼は首肯した。その表情からは先ほどの微笑は消えており、何も読み取れない無表情であった。
「事業は流石にご存じでしょう」
「貿易業、精密機器を主に、ほかにも様々なものを」
「そうです。その“様々なもの”は何が多かったかは…いえ、知るはずがないでしょうね」
あなたは清い人ですから、そう云って彼は私の手に触れた。気づかぬうちに自分の手を握り閉めていたようで、はっとして手を開いた。
「武器です。所謂裏社会で取引されているものを海外から輸入していたのです」
「そんな…」
「ですが、恨みを買った原因はそこではありません。裏社会の人間は寧ろ彼に感謝すらしていたはずです」
「じゃあ警察が火を…いやそんな訳ないわよね」
「はい。勿論放火は裏の人間によるものでしょう。あなたの祖父と父親は彼らを欺いていたのです」
「どういうこと…?騙して売りつけていたということ?」
「表面上はそういうことでしょう」
ここまでくると自分の肉親のことだとは思えず、なんだか他人事のような気がしてきた。
別の悪党が行っていた事件の真相を聞いているようで、逆に冷静になれそうだ。
「ということはずっとばれていなかったのが三年前に父が何かしてしまったのね」
「それは違います」
え、と戸惑う私の額に、とん、と右手の指先を当てた。指先は細く、少し冷たかった。
小さいころ、こうして座った状態で額を抑えられると立ち上がれなくなるといって、友達とやりあったときのようだ。
だが彼の行動の真意は読めない。むしろ彼はこの動作をやりなれているのかと思うくらい、あまりにスムーズだった。
「以前にもしたことのある質問をもう一度します。あなたは、異能力のことをどう思いますか」